宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 宵の手袋を外すと、黒く染まった指先が露わになった。その手に触れる時、少しだけ怖かった。
 呪いが移ることではない。宵が離れてしまうかもしれないと思ったからだ。

 けれど宵は動かなかった。
 透子は手巾でそっと指先を拭っていく。

「痛かったら言ってください」
「言わないと思う」
「言ってください」
「まあ、考えておく」
「旦那様」

 宵は目を閉じる。
 手当ての間、意外にも大人しかった。
 透子はその横顔を見ながら、胸の奥で静かに思う。

 ――宵を好きになってはいけない。愛は、彼を苦しめるものだ。篠乃のように、彼を壊すかもしれない。

 けれど、こんなふうに触れていると、どうしても思ってしまう。
 この人に、痛いと言ってほしい。苦しいと、寂しいと、助けてと。そしてその時、そばにいたいと思うのだ。

「透子」

 不意に呼ばれて、透子は手を止めた。

「今、何考えてた?」
「……旦那様は、鋭いですね」
「君が分かりやすいんだよ」

 透子は少し迷った。けれど、嘘をついても見抜かれる気がした。

「旦那様が、いつか私に痛いと言ってくださったらいいと思っていました」

 宵の目が開く。その瞳は、吸い込まれてしまいそうなくらいに綺麗だった。

「それ、聞いてどうするの」
「そばにいます。何もできなくても」
「それが困るって、何度も言ってる」
「はい」
「透子」

 宵は透子の手を見た。
 黒く染まった手に触れている透子の指を、苦しそうに見つめている。

「……君、僕のことを好きになりかけてる?」

 からかうような口調だった。けれど透子は、その問いを冗談として受け流すことができなかった。

 宵はいつも通りの顔をしている。人を翻弄するような笑みも浮かべている。それなのに、その瞳の奥には妙な真剣さがあった。

 透子は言葉を探した。否定するべきなのだろうと思う。そう言ってしまえば済む話のはずだった。しかし口を開こうとした途端、自分でも理由の分からない戸惑いが胸の内へ広がる。

 ――好きではありません。その一言が、どうしてもうまく形にならなかった。
 押し黙った透子を見て、宵は困ったように目を伏せる。

「沈黙は肯定と受け取るけど」

 吐き出された声には苦笑が滲んでいた。それは透子を責める響きではなく、自分自身へ向けられた諦めのように聞こえた。