宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 離れを出たあと、宵はしばらく歩かなかった。
 竹林の前で立ち止まり、ただ空を見上げている。曇った空だった。昼なのに、宵の時間に似た薄暗さがある。

 透子は少し離れたところで、黙って彼を見ていた。八重は気を利かせるように、少し後ろへ下がっている。

「余計なことをしたと思っていますか」

 透子が尋ねると、宵は苦しそうに笑った。

「母上に、あんなことを言わせるつもりはなかった」
「でも、言わなければ、ずっとそのままだったかもしれません」
「そのままでよかったんだよ」
「本当に?」

 宵は答えなかった。
 透子は一歩、彼に近づく。

「旦那様は、お母様に聞いてほしかったのではありませんか」
「何を」
「苦しかったのか、と」

 宵は微かに肩を震わせた。

「透子。君は時々、遠慮なく人の傷口に手を入れるね」
「すみません」
「謝らない」
「気をつけます」
「気をつけなくていいよ」

 透子は顔を上げる。
 宵は視線を逸らしたまま言った。

「……今回は」

 それだけだった。けれど透子には、十分だった。
 宵は怒っていない。本当に、透子を拒んではいない。
 そのことが、胸に沁みた。

「旦那様」
「何」
「手が黒くなっています」
「ああ」

 彼は自分の左手を見る。手袋の下から、黒が滲んでいた。

「母上の感情に触れたからかな」

 宵の手は穢れだけではなく、他人の不の感情も引き寄せ、そして移してしまうのだろうか。

「痛いですか」
「……少しだけ」

 透子は驚いた。
 宵が自分から認めるだなんて、滅多にないことだ。それだけで泣きそうになってしまう。

「手当てを」
「ここで? 花嫁さん、大胆だね」
「意味が違います」
「分かってるよ」

 宵は力なく笑い、近くの石灯籠のそばに腰を下ろした。
 透子は懐から手巾を取り出す。最近、宵のために持ち歩くようになったものだ。包帯も、八重が持たせてくれている。
 宵はそれに気づいて、呆れたように目を細めた。

「準備がいい」
「旦那様がすぐ無理をなさるので」
「僕のせいなの?」

 透子が頷くと、宵はふっと唇を緩めた。

「何でも僕のせいだ」