「私はね、宵、愛されたかっただけなの」
篠乃が息子を見る。
「たった一度でよかった。妻だと言ってほしかった。必要だと言ってほしかった。名前を呼んで、見てほしかった」
宵は何も言わない。けれど周囲の孤独が、静かに黒く沈んでいく。
「でも、あの人はくれなかった。だから私は、あなたを愛したの」
透子の指先が強張る。
その愛の色は重かった。寂しさと執着が混ざった、息のしづらい色だった。
「あなたは私を見てくれた。母上、母上って、何度も呼んでくれた。私は嬉しかったの。ようやく愛してもらえると思った」
「母上」
「なのに、あなたまで私を怖がるようになった。どうして? 私は、あなたを愛していただけなのに」
その瞬間、宵の左手に黒い染みが滲んだ。
透子は思わず彼の名を呼ぶ。
宵は答えなかった。ただ、静かに呼吸をしている。
「母上。僕は仕事で来ただけです」
その言葉は静かだった。けれど、とても残酷だった。
近づけば壊れる。だから、距離を取るしかなかったのだろう。
自分も、母も。
篠乃はしばらく宵を見つめ、それから小さく笑った。
「そう。あなたも、あの人に似たのね」
宵の顔が白くなる。
透子は胸が締めつけられた。それはきっと、宵にとって一番痛い言葉だった。愛を返せなかった父。母を壊した父。自分は違うと思いたいのに、似ていると言われる痛み。
「義母上さま」
気づけば、透子は口を開いていた。
宵が驚いたようにこちらを見る。篠乃もまた、ゆっくり透子へ視線を向けた。
「旦那様は、似ていません」
「あなたに何が分かるの」
静かな声だった。けれど鋭い。
透子は指先を握った。
怖いけれど、それでも言わずにはいられなかった。
「旦那様は、誰かを壊さないために遠ざけているのだと思います。それが正しいかは分かりません。でも、何も感じていないわけではないと思います」
「透子」
「だって、旦那様は、とても苦しそうです」
篠乃の目が揺れた。彼女の胸の中で、金色と黒が揺れた。そして彼女は初めて、本当に宵を見た。
透子ではなく、息子を。
「宵。あなた……苦しかったの?」
宵の表情が、凍った。
透子は分かった。
きっと、この言葉がずっと欲しかったのだ。
愛してるではなく、責めるのでもなく、逃げるのでもなく、ただ、苦しかったの、と。
たった一度、母親に聞いてほしかった。
宵は何も言わなかった。言えなかったのだと思う。
透子はそっと、宵の袖に触れた。
宵は振り払わなかった。
「……母上。その簪は、今どこに」
篠乃はゆっくり瞬きをした。
「返したわ。あの人に」
「父上に?」
「ええ。もう要らない、と言ったの。妻にした証なら、要らないって」
「いつですか」
「私が、この離れへ移される少し前」
宵は黙る。
篠乃は庭を見たまま続けた。
「あの人は、その後亡くなったでしょう? だからもう、どこへ行ったのか分からない」
透子と宵は、同時に視線を交わした。
篠乃から暁臣へ返された簪。その簪は、古い台帳では婚姻媒介具として記録されている。
そして今、透子を襲った黒い糸の残滓には、同じ金色が絡んでいた。
呪いは、篠乃だけのものではない。
宵の父、そして十年前――南雲家で起きた何かとも繋がっているのだろう。
けれど透子が今いちばん気になったのは、事件のことではなく、隣にいる人のことだった。
宵はまだ俯いている。
透子はそっと、その袖を握る。
今度は、宵が少しだけ握り返した。
篠乃が息子を見る。
「たった一度でよかった。妻だと言ってほしかった。必要だと言ってほしかった。名前を呼んで、見てほしかった」
宵は何も言わない。けれど周囲の孤独が、静かに黒く沈んでいく。
「でも、あの人はくれなかった。だから私は、あなたを愛したの」
透子の指先が強張る。
その愛の色は重かった。寂しさと執着が混ざった、息のしづらい色だった。
「あなたは私を見てくれた。母上、母上って、何度も呼んでくれた。私は嬉しかったの。ようやく愛してもらえると思った」
「母上」
「なのに、あなたまで私を怖がるようになった。どうして? 私は、あなたを愛していただけなのに」
その瞬間、宵の左手に黒い染みが滲んだ。
透子は思わず彼の名を呼ぶ。
宵は答えなかった。ただ、静かに呼吸をしている。
「母上。僕は仕事で来ただけです」
その言葉は静かだった。けれど、とても残酷だった。
近づけば壊れる。だから、距離を取るしかなかったのだろう。
自分も、母も。
篠乃はしばらく宵を見つめ、それから小さく笑った。
「そう。あなたも、あの人に似たのね」
宵の顔が白くなる。
透子は胸が締めつけられた。それはきっと、宵にとって一番痛い言葉だった。愛を返せなかった父。母を壊した父。自分は違うと思いたいのに、似ていると言われる痛み。
「義母上さま」
気づけば、透子は口を開いていた。
宵が驚いたようにこちらを見る。篠乃もまた、ゆっくり透子へ視線を向けた。
「旦那様は、似ていません」
「あなたに何が分かるの」
静かな声だった。けれど鋭い。
透子は指先を握った。
怖いけれど、それでも言わずにはいられなかった。
「旦那様は、誰かを壊さないために遠ざけているのだと思います。それが正しいかは分かりません。でも、何も感じていないわけではないと思います」
「透子」
「だって、旦那様は、とても苦しそうです」
篠乃の目が揺れた。彼女の胸の中で、金色と黒が揺れた。そして彼女は初めて、本当に宵を見た。
透子ではなく、息子を。
「宵。あなた……苦しかったの?」
宵の表情が、凍った。
透子は分かった。
きっと、この言葉がずっと欲しかったのだ。
愛してるではなく、責めるのでもなく、逃げるのでもなく、ただ、苦しかったの、と。
たった一度、母親に聞いてほしかった。
宵は何も言わなかった。言えなかったのだと思う。
透子はそっと、宵の袖に触れた。
宵は振り払わなかった。
「……母上。その簪は、今どこに」
篠乃はゆっくり瞬きをした。
「返したわ。あの人に」
「父上に?」
「ええ。もう要らない、と言ったの。妻にした証なら、要らないって」
「いつですか」
「私が、この離れへ移される少し前」
宵は黙る。
篠乃は庭を見たまま続けた。
「あの人は、その後亡くなったでしょう? だからもう、どこへ行ったのか分からない」
透子と宵は、同時に視線を交わした。
篠乃から暁臣へ返された簪。その簪は、古い台帳では婚姻媒介具として記録されている。
そして今、透子を襲った黒い糸の残滓には、同じ金色が絡んでいた。
呪いは、篠乃だけのものではない。
宵の父、そして十年前――南雲家で起きた何かとも繋がっているのだろう。
けれど透子が今いちばん気になったのは、事件のことではなく、隣にいる人のことだった。
宵はまだ俯いている。
透子はそっと、その袖を握る。
今度は、宵が少しだけ握り返した。


