宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 宵の母、南雲篠乃は、縁側に座っていた。
 四十を過ぎているはずなのに、遠目にはもっと若く見える。白い着物に包まれた細い身体、長く垂らされた黒髪、硝子細工のように美しい横顔は、光を受ければすぐに割れてしまいそうなほど脆かった。

 篠乃は庭を見つめたまま、こちらを振り向かない。
 宵が立ち止まった。

「母上」

 その声は、透子が聞いたこともないほど硬かった。
 篠乃はゆっくり顔を向け、宵を見る。一瞬だけ、その瞳に光が宿る。

「……宵」

 掠れた声だった。けれど確かに、彼の名を呼んだ。
 宵の表情は変わらなかった。

「お久しぶりです」
「大きくなったのね。あなた、また痩せたでしょう」
「変わりありません」
「嘘」

 その言い方が、少しだけ宵に似ていた。透子は思わず隣を見たが、宵は気づかないふりをしている。
 やがて篠乃の視線が透子へ移った。

「あら。その子は?」
「僕の妻です」

 淡々とした声だった。
 ――妻。花嫁と呼ばれることには慣れたはずなのに、その呼び名だけは少し違った。まるで南雲家の客人ではなく、本当にこの家の人間になれたような気がして、透子の胸はかすかに熱を帯びる。

「そう。宵のお嫁さん」

 その声に、不意に濃い感情が滲んだ。羨望、寂しさ、そして少しの怒り。篠乃は微笑んでいるのに、その胸の奥では何かが細かく震えている。

「宵にも、お嫁さんが来たのね。よかったわね」

 よかった、と言いながら、金色の孤独はさらに深くなる。置いていかれた人の色。誰かの隣に立ちたかった人の色。愛されたかった人の色。
 透子は目を伏せそうになった。その痛みが、少しだけ分かってしまったからだ。

「母上に聞きたいことがあります」
「なあに」
「古い台帳に、母上が持っていた簪の記録が残っていました。金蒔絵の簪です」

 篠乃の表情が止まる。

「……簪?」
「父上から贈られたものですよね」

 笑みが、ゆっくり消えた。忘れていた傷を、急に抉られた人の顔だった。

 長い沈黙のあと、篠乃は自分の髪に触れるように細い指を上げた。

「婚礼の夜にいただいたの。髪に挿してくださって、綺麗だと言ってくださった」

 透子の胸が少し痛む。

「私は、その時ようやく妻になれたのだと思ったの」

 その声には、長い年月を越えても消えない熱が残っていた。

「でも、父上は母上を愛さなかった」

 宵の声が低くなる。
 篠乃の顔が、ゆっくり歪んだ。

「そうね。優しかったわ。丁重だったわ。何ひとつ不足はなかった。でも、私を見なかった」

 透子の胸にも、その言葉が刺さった。
 そこにいるのに、見てもらえないこと。名前を呼ばれないこと。必要とされないまま、役割だけを与えられること。