「……何かあります」
透子が呟くと、宵の目がわずかに鋭くなる。
「見える?」
「はい。この黒い糸に、金色の糸が絡んでいます。綺麗なのに、とても寂しい色です」
「糸、ね」
「見間違いかもしれませんが、折れた簪にも見えました」
そこで、宵の表情が止まった。
宵は黙ったまま、机の端に置かれた古い台帳へ視線を落とした。その頁には、かすれた筆跡で【金蒔絵簪 一点。婚姻媒介具】と記されている。
「……母上が持っていた簪と関係があるのかな」
低く落とされた声は、透子がこれまで聞いたことのないほど硬かった。
「簪、ですか」
「昔、よく髪に挿していた。父上から贈られたものだと、大事にしていた」
「今もお持ちなのではありませんか」
「分からない。母上とは、長く話していないから」
会っていない、ではなく、話していない。その言い方が胸に引っかかった。会うことはできるのに言葉は交わせないのか、あるいは言葉を交わせば何かが壊れてしまうのか、そのどちらにしても、そこには容易に踏み込めない距離があるのだと分かる。
宵は台帳を閉じると、どこか覚悟を決めるように目を伏せた。
「確認する。離れへ行く」
「お母様のところへ?」
「母上が何か知っているかもしれない」
静かな声だったが、その静けさの下には張りつめたものがあった。行かなければならない。けれど本当は行きたくない。宵はそういう顔をしていた。
「私も行きます」
透子が言うと、宵はあからさまに眉を寄せた。
「危ないかもしれない」
「旦那様の目が届くところだけ、ではなかったですか」
以前、彼が透子に告げた条件を返すと、宵は少しだけ黙った。
「……覚えてるんだ」
「忘れません」
「そういうところ、本当に困る」
そう言いながらも、宵は止めなかった。
だから透子は、その隣に立つことにした。今日は、この人をひとりで傷の深い場所へ向かわせたくなかった。
南雲家の離れは、屋敷の最も奥にあった。
母屋から渡り廊下を抜け、手入れの行き届いた庭をさらに越えた先、竹林に囲まれた小さな建物は、まるで家そのものから忘れられることを望んでいるように、ひっそりと佇んでいる。
そこへ向かう間、宵はほとんど何も話さなかった。
透子もまた、何を言えばいいのか分からず、ただ彼の隣を歩いていた。今日の宵は軍服ではなく、黒い着流しに羽織姿だった。八重に療養中なのだからと強く言われた結果らしいが、その姿は軍服の時よりずっと儚く見えた。
白い横顔。細い肩。夜を溶かしたような黒髪。
夜が人の姿を取ったみたいな人だと、透子は思う。綺麗で、遠くて、少し触れただけで消えてしまいそうで、だからこそ、そばにいたくなる。
そう思ってしまう自分が、少し怖かった。
「透子」
不意に名前を呼ばれ、透子は足を止めそうになった。宵もまた、言い慣れない呼び方を口にしたことに気づいたようだったが、もう言い直さなかった。
「中に入ったら、見えたものを全部教えて。でも、無理はしないこと」
「旦那様もです」
「僕はいい」
「よくありません」
即座に返すと、宵は少し目を細めた。
「強くなったね」
「旦那様のせいです」
「最近、何でも僕のせいにする」
「実際そうなので」
「ひどい花嫁さんだ」
その声は少しだけ柔らかかった。けれど、離れの前に着いた瞬間、その柔らかさは消えた。
八重が静かに戸を開けると、中から白檀の香りが流れてくる。それと一緒に透子の目へ飛び込んできたのは、薄い金色の孤独だった。
黒でも、灰でもない。夕暮れに沈む花のような、寂しく、きれいで、壊れかけた色。
透子は息をのむ。
これは、愛されたかった人の色だ。
透子が呟くと、宵の目がわずかに鋭くなる。
「見える?」
「はい。この黒い糸に、金色の糸が絡んでいます。綺麗なのに、とても寂しい色です」
「糸、ね」
「見間違いかもしれませんが、折れた簪にも見えました」
そこで、宵の表情が止まった。
宵は黙ったまま、机の端に置かれた古い台帳へ視線を落とした。その頁には、かすれた筆跡で【金蒔絵簪 一点。婚姻媒介具】と記されている。
「……母上が持っていた簪と関係があるのかな」
低く落とされた声は、透子がこれまで聞いたことのないほど硬かった。
「簪、ですか」
「昔、よく髪に挿していた。父上から贈られたものだと、大事にしていた」
「今もお持ちなのではありませんか」
「分からない。母上とは、長く話していないから」
会っていない、ではなく、話していない。その言い方が胸に引っかかった。会うことはできるのに言葉は交わせないのか、あるいは言葉を交わせば何かが壊れてしまうのか、そのどちらにしても、そこには容易に踏み込めない距離があるのだと分かる。
宵は台帳を閉じると、どこか覚悟を決めるように目を伏せた。
「確認する。離れへ行く」
「お母様のところへ?」
「母上が何か知っているかもしれない」
静かな声だったが、その静けさの下には張りつめたものがあった。行かなければならない。けれど本当は行きたくない。宵はそういう顔をしていた。
「私も行きます」
透子が言うと、宵はあからさまに眉を寄せた。
「危ないかもしれない」
「旦那様の目が届くところだけ、ではなかったですか」
以前、彼が透子に告げた条件を返すと、宵は少しだけ黙った。
「……覚えてるんだ」
「忘れません」
「そういうところ、本当に困る」
そう言いながらも、宵は止めなかった。
だから透子は、その隣に立つことにした。今日は、この人をひとりで傷の深い場所へ向かわせたくなかった。
南雲家の離れは、屋敷の最も奥にあった。
母屋から渡り廊下を抜け、手入れの行き届いた庭をさらに越えた先、竹林に囲まれた小さな建物は、まるで家そのものから忘れられることを望んでいるように、ひっそりと佇んでいる。
そこへ向かう間、宵はほとんど何も話さなかった。
透子もまた、何を言えばいいのか分からず、ただ彼の隣を歩いていた。今日の宵は軍服ではなく、黒い着流しに羽織姿だった。八重に療養中なのだからと強く言われた結果らしいが、その姿は軍服の時よりずっと儚く見えた。
白い横顔。細い肩。夜を溶かしたような黒髪。
夜が人の姿を取ったみたいな人だと、透子は思う。綺麗で、遠くて、少し触れただけで消えてしまいそうで、だからこそ、そばにいたくなる。
そう思ってしまう自分が、少し怖かった。
「透子」
不意に名前を呼ばれ、透子は足を止めそうになった。宵もまた、言い慣れない呼び方を口にしたことに気づいたようだったが、もう言い直さなかった。
「中に入ったら、見えたものを全部教えて。でも、無理はしないこと」
「旦那様もです」
「僕はいい」
「よくありません」
即座に返すと、宵は少し目を細めた。
「強くなったね」
「旦那様のせいです」
「最近、何でも僕のせいにする」
「実際そうなので」
「ひどい花嫁さんだ」
その声は少しだけ柔らかかった。けれど、離れの前に着いた瞬間、その柔らかさは消えた。
八重が静かに戸を開けると、中から白檀の香りが流れてくる。それと一緒に透子の目へ飛び込んできたのは、薄い金色の孤独だった。
黒でも、灰でもない。夕暮れに沈む花のような、寂しく、きれいで、壊れかけた色。
透子は息をのむ。
これは、愛されたかった人の色だ。


