宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 案の定、宵は透子の表情を見ただけで察したらしい。

「泣く?」 
「泣きません」
「嘘が下手」
「……少しだけ、泣きそうです」
「正直でよろしい」

 それを聞いた宵は困ったように笑う。本当に困った時の顔だった。けれど、今度は目を逸らしはしなかった。
 布団の上に出たままの指先がわずかに動く。
 透子は迷いながら、その手に触れた。振り払われなかったことに、小さく安堵する。

「旦那様」
「何」
「もしも旦那様が苦しい時」

 透子はその温度を確かめながら、胸の奥に浮かんでいた願いを口にした。

「痛みに呑まれそうな時や、どこか遠くへ行ってしまいそうな時に、私が旦那様のお名前を呼んでもよろしいですか」

 返事はすぐには返らなかった。
 長い沈黙が落ちる。風が吹き、灯りが揺れ、二人の間を静かな夜が流れていく。

「呼んで、どうするの」
「戻ってきていただきます」
「僕が戻らなかったら?」
「何度でも呼びます」
「しつこいね」
「はい」
「そこは否定して」
「できません」

 透子は待った。
 宵は視線を逸らしたまま、ひどく小さな声で呟いた。

「……勝手にすれば」

 相変わらず素直ではない。けれど拒絶ではなかった。
 だから透子は微笑んだ。

「はい」
「嬉しそうだね」
「嬉しいです」
「安上がり」
「そうかもしれません」
「怒らないんだ」
「怒るより嬉しいので」

 宵は何かを言い返そうとして、結局やめたらしい。困ったように目を伏せ、それから透子の指先をほんの少しだけ握り返した。

「君が、名前を呼ばれると嬉しいことは覚えておく」

 何気ない一言だった。
 けれど透子には、たまらなく嬉しかった。

 夜は深い。南雲家は相変わらず痛みと孤独を抱えた家だった。けれど透子は、その夜初めて思う。
 この家でなら、自分は少しずつ透明ではなくなっていけるのかもしれない、と。

 たとえ宵がまだ距離を取ろうとしていても。たとえ好きになってはいけないと言われていても。名前を呼んでくれる声があるならば、その声をもう少しだけ信じてみたい。
 そんな願いを抱いたまま、透子は静かな夜の底へ目を伏せた。