宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

「花嫁さん。僕の言うことを聞く気がないでしょ」
「内容によります」
「優しくしないでって言った」
「それは聞けません」
「どうして」
「心配なので」

 宵はしばらく黙り、やがて観念したように小さく息を吐いた。

「君、本当に面倒」
「旦那様ほどではありません」
「返しが上手くなってきたね」
「旦那様のおかげです」
「嬉しくない」

 そう言いながらも、宵は透子の手を払いのけなかった。
 風の音だけが障子の向こうを流れていく。その静けさの中で、不意に昨夜の声が蘇った。

 ――愛されない花嫁。
 耳の奥へ染み込むようなあの囁きは、糸が消えたあとも完全には消えていなかった。

「旦那様」
「何」
「昨夜、声がしました」

 宵の表情がわずかに変わる。それまでの穏やかな空気が薄く引き締まり、その目には昨夜の事件を語る時の冷たさが戻った。

「どんな声」
「愛されない花嫁、と」

 宵の目が冷える。けれど、その冷たさは透子へ向けられたものではなかった。

「君は、あれと同じじゃない」
「どうして言い切れるのですか」
「君はまだ名前を持っている」

 宵は少し考えるように目を伏せたあと、静かに続けた。

「誰かに奪われてもいないし、誰かのものにもなっていない。だから渡してはいけない」
「私の名前は、私のものですか」
「そうだよ」

 宵ははっきりと言った。

「如月家のものでも、南雲家のものでもない。僕のものでもない」

 透子はひゅっと息を呑む。
 その言葉は、呪いへの警告であると同時に、透子自身への言葉にも聞こえた。名前を呼ばれず、役割ばかりを与えられてきた透子へ向けられた言葉。君の名は君のものだと、そう言ってくれているような気がした。

「呼ばれても答えるな。名前を渡すな」
「はい」

 宵は少しだけ目を伏せた。何かを迷うように沈黙し、それからゆっくりと唇を開く。

「君の名前は僕が呼ぶから」

 透子が瞬きをする。
 宵は視線を逸らしたままだった。

「……旦那様」
「何」
「今のは、ずるいです」
「意味が分からない」
「分かっていますでしょう」
「分からない」
「絶対に分かっています」
「病人を責めるなんて、君は本当にひどい」

 そう言って逃げようとする顔が、少しだけ赤いように見えた。
 胸の奥が熱くなる。泣きたくなるほど嬉しいのに、泣けばまた困った顔をされることも分かっていた。