「笑った?」
「笑っていません」
「嘘が下手」
「旦那様ほどではありません」
「本当に言うようになったなあ」
けれど本気で反論する気力もないのだろう。宵はやがて諦めたように息を吐き、話題を本筋へ戻した。
榊が持参した資料を机へ広げる。昨夜、南雲家へ侵入した黒い糸は、失踪した花嫁たちの現場で発見されたものと同系統であること。そして昨夜のものは、過去の痕跡より遥かに濃く、明確な標的意識を持って透子へ向けられていたこと。
説明を聞きながら、透子は昨夜の感触を思い出していた。
喉へ絡みついた冷たい糸。名を差し出せと囁く声。あれは花嫁という役割を求めていたのではない。透子という存在そのものを欲していた。
「失踪した娘たちに、共通点が見つかりました」
榊が低く言う。
宵の目が鋭くなる。
「婚礼前、全員が古い婚姻儀礼を受けています。嫁ぎ先へ名を書いた札を納める儀式です。表向きには家同士の契約を示す作法に過ぎませんが、本質は花嫁の名を媒介にした縛りでした」
「名を縛る……」
透子が呟くと、宵の視線がすぐにこちらへ向いた。
「気分が悪い?」
「いいえ。ただ、その言葉が少し怖くて」
「怖いと思えるなら正常だよ。人の名を縛るなんて、まともな儀式じゃない」
宵の声は静かだったが、その奥には冷たい怒りが滲んでいた。
名を縛る。その言葉はどこか他人事ではなかった。人としてではなく役割として扱われること。名前を持ちながら、その名を呼ばれないこと。長いあいだ透子が抱えてきた孤独と、その儀式はどこか似た形をしているように思えたからだ。
榊はさらに資料をめくった。
「それから、失踪した娘の一人が、如月家と遠縁にあたります」
「如月家……」
その名を聞いた時、透子は家族のことを思い出した。
父の無表情な横顔。母の静かな眼差し。彩子の優しい微笑み。彼らは誰ひとりとして透子を憎んではいなかった。けれど誰も、透子を必要とはしなかった。そんな家が、この事件とどこかで繋がっているのかもしれない。
そう思った途端、胸の内側に重いものが沈んだ。
気づけば指先が強く握られていた。その小さな変化に、宵はすぐ気づいたらしい。
「無理に考えなくていい」
「嫌です」
透子が即座に答えると、宵は目を細めた。
「嫌?」
「知らなくていいと言われるのは、慣れています」
透子は静かに言った。
「でも、もう嫌なのです」
部屋が静まる。
「昨夜、私は名前を奪われそうになりました。何も知らないままでは、自分のことも守れません」
「君が知ったところで、傷つくだけかもしれない」
「もう傷ついています」
宵が黙る。
透子は視線を逸らさなかった。
「それでも、知らないままよりはいいです。自分に関わることなら、自分で知りたいのです」
榊が小さく息を呑む。宵だけが、何も言わずに透子を見ていた。
怒っているわけではない。むしろ逆だった。その眼差しには、どうしようもない不安が滲んでいる。危険へ近づく透子を止めたい。けれど本人の意思も無視したくない。その相反する感情の間で揺れていることが、透子にも分かった。
やがて宵は長く息を吐く。それは諦めにも似た吐息だった。
「……僕の目が届くところだけだ」
低く落とされたその言葉は、許可というより条件だった。
「勝手に動かないこと」
「はい」
「危ないものに触らないこと」
「はい」
「僕が止めたら止まること」
「努力します」
「そこは、はい、でしょ」
「できない約束はしたくありません」
宵は疲れたように目を伏せた。
「本当に、君は聞き分けが悪い」
「旦那様の花嫁ですから」
口にしてから、透子は少しだけ頬が熱くなった。宵も一瞬だけ目を見開いたが、すぐに視線を逸らした。
「……そういうところが困るんだよ」
小さく零れた声には、拒絶ではない響きが混じっていた。
「笑っていません」
「嘘が下手」
「旦那様ほどではありません」
「本当に言うようになったなあ」
けれど本気で反論する気力もないのだろう。宵はやがて諦めたように息を吐き、話題を本筋へ戻した。
榊が持参した資料を机へ広げる。昨夜、南雲家へ侵入した黒い糸は、失踪した花嫁たちの現場で発見されたものと同系統であること。そして昨夜のものは、過去の痕跡より遥かに濃く、明確な標的意識を持って透子へ向けられていたこと。
説明を聞きながら、透子は昨夜の感触を思い出していた。
喉へ絡みついた冷たい糸。名を差し出せと囁く声。あれは花嫁という役割を求めていたのではない。透子という存在そのものを欲していた。
「失踪した娘たちに、共通点が見つかりました」
榊が低く言う。
宵の目が鋭くなる。
「婚礼前、全員が古い婚姻儀礼を受けています。嫁ぎ先へ名を書いた札を納める儀式です。表向きには家同士の契約を示す作法に過ぎませんが、本質は花嫁の名を媒介にした縛りでした」
「名を縛る……」
透子が呟くと、宵の視線がすぐにこちらへ向いた。
「気分が悪い?」
「いいえ。ただ、その言葉が少し怖くて」
「怖いと思えるなら正常だよ。人の名を縛るなんて、まともな儀式じゃない」
宵の声は静かだったが、その奥には冷たい怒りが滲んでいた。
名を縛る。その言葉はどこか他人事ではなかった。人としてではなく役割として扱われること。名前を持ちながら、その名を呼ばれないこと。長いあいだ透子が抱えてきた孤独と、その儀式はどこか似た形をしているように思えたからだ。
榊はさらに資料をめくった。
「それから、失踪した娘の一人が、如月家と遠縁にあたります」
「如月家……」
その名を聞いた時、透子は家族のことを思い出した。
父の無表情な横顔。母の静かな眼差し。彩子の優しい微笑み。彼らは誰ひとりとして透子を憎んではいなかった。けれど誰も、透子を必要とはしなかった。そんな家が、この事件とどこかで繋がっているのかもしれない。
そう思った途端、胸の内側に重いものが沈んだ。
気づけば指先が強く握られていた。その小さな変化に、宵はすぐ気づいたらしい。
「無理に考えなくていい」
「嫌です」
透子が即座に答えると、宵は目を細めた。
「嫌?」
「知らなくていいと言われるのは、慣れています」
透子は静かに言った。
「でも、もう嫌なのです」
部屋が静まる。
「昨夜、私は名前を奪われそうになりました。何も知らないままでは、自分のことも守れません」
「君が知ったところで、傷つくだけかもしれない」
「もう傷ついています」
宵が黙る。
透子は視線を逸らさなかった。
「それでも、知らないままよりはいいです。自分に関わることなら、自分で知りたいのです」
榊が小さく息を呑む。宵だけが、何も言わずに透子を見ていた。
怒っているわけではない。むしろ逆だった。その眼差しには、どうしようもない不安が滲んでいる。危険へ近づく透子を止めたい。けれど本人の意思も無視したくない。その相反する感情の間で揺れていることが、透子にも分かった。
やがて宵は長く息を吐く。それは諦めにも似た吐息だった。
「……僕の目が届くところだけだ」
低く落とされたその言葉は、許可というより条件だった。
「勝手に動かないこと」
「はい」
「危ないものに触らないこと」
「はい」
「僕が止めたら止まること」
「努力します」
「そこは、はい、でしょ」
「できない約束はしたくありません」
宵は疲れたように目を伏せた。
「本当に、君は聞き分けが悪い」
「旦那様の花嫁ですから」
口にしてから、透子は少しだけ頬が熱くなった。宵も一瞬だけ目を見開いたが、すぐに視線を逸らした。
「……そういうところが困るんだよ」
小さく零れた声には、拒絶ではない響きが混じっていた。


