宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 夕刻、宵の部下である榊が南雲家を訪れた。
 軍府文書局の制服を端正に着こなした彼は、北棟へ向かう途中で透子を見つけると、昨夜の件について簡潔な見舞いの言葉を述べた。

「奥方様、ご無事で何よりでした」
「ありがとうございます。榊様にも、ご心配をおかけしました」
「心配というより、肝が冷えました。南雲少将があのように取り乱されたのは、私も初めて見ましたので」

 透子は返事に詰まった。昨夜、宵がどれほど必死に自分の名を呼んだのかを思い出して、胸の奥が熱くなる。
 榊はその反応を見て、少しだけ目を細めた。

「失礼しました。余計なことを申しました」
「いえ」
「ただ、昨夜の襲撃はそれほど異常だったということです。黒い糸は明確な意思を持って奥方様を狙い、名を奪おうとしていました。もし少将が間に合わなければ、どうなっていたか分かりません」

 その先を想像しようとした瞬間、透子の背筋の奥が冷えた。

 榊に伴われて北棟へ向かいながら、透子は無意識に足を速めていた。宵の容体が気になっていた。熱は下がったのだろうか。穢れは落ち着いたのだろうか。昨夜のあの顔が忘れられない。透子の名を呼んだ時の、余裕も皮肉も失った必死な表情が。

 だから調査室の戸を開けた瞬間、予想通りの光景を目にしても、驚きより先に呆れが込み上げた。

 宵は机に向かっていた。書類の束が積み上がり、その中央で本人は何事もなかったような顔をしている。

 ただ、その顔色だけは誤魔化しようがなかった。唇には血の気がなく、左腕には包帯が幾重にも巻かれている。昨夜よりは穏やかになったとはいえ、穢れの残滓はまだ沈み切っていない。どう見ても安静にしているべきなのに。

 透子が何も言わず見つめていると、宵は視線だけを上げて苦笑する。

「そんな顔をしないで」
「寝ているはずではありませんでしたか」
「ずっと横になっていたら退屈だったんだよ」
「熱を出して倒れた方が言うことではありません」
「少し調べものをしていただけ」
「少し、の量ではありません」

 透子が机に積まれた書類へ視線を向けると、宵は不満そうに眉を寄せた。

「花嫁さん、最近本当に厳しい」
「旦那様が聞き分け悪いからです」
「榊、君からも何か言って」

 宵が助けを求めるように視線を向けると、榊はごく真面目な顔で頷いた。

「奥方様のおっしゃる通りかと」
「裏切ったね」
「私は事実を申し上げただけです」
「君もだいぶ性格が悪い」
「南雲少将ほどではありません」

 透子は思わず笑いそうになった。
 軍府で恐れられている南雲少将が、二人がかりで休養を命じられている。その光景は少し可笑しく、そして少しだけ温かかった。宵はそんな透子を見て、ますます面白くなさそうに眉を寄せる。