宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 しんと静まり返った空気の中で、宵は何かを考えるように目を伏せている。やがて思い出したように口を開いた。

「家では、なんて呼ばれてたの」
「名前で呼ばれることは、あまりありませんでした。用事がある時だけくらいで」
「用事がある時だけ、ね」

 宵の声が少し低くなる。

「お前、とか。そこの子、とか。そんな感じ?」
「近いかもしれません」
「最低だな」
「旦那様ほどではありません」
「僕はちゃんと花嫁さんって呼んでる」
「それも、どうなのでしょう」
「可愛い呼び方でしょ」
「私には名前があります」
「知ってるよ」

 宵は静かに言った。その声はからかいではなく、どこか自分に言い聞かせるような響きを持っていた。
 透子の胸が小さく鳴る。

「久世晴臣は」

 不意に問われ、透子は少しだけ目を伏せた。

「昔は呼んでくださいました。でも、婚約者というより家同士の約束でしたから」
「ほんと、顔だけの男だね」

 宵の表情だけが冷ややかなものへ変わっていく。

「怒っておられるのですか」
「別に」
「とても性格が悪そうなお顔をしています」

 一瞬の沈黙のあと、宵が吹き出した。

「よく分かってきたね」
「毎日見ていますから」
「毎日見ていると、性格の悪い顔が分かるようになるんだ」
「はい。旦那様のおかげです」
「また僕のせい」

 透子もつられて笑った。
 障子越しの光は、いつの間にか少しだけ明るくなっていた。部屋の輪郭がゆっくりと朝に染まっていく。重ねた指先からは、昨夜よりも確かな温度が返ってきていた。
 透子はそのぬくもりを確かめるように見つめ、それから静かに言った。

「お名前を呼んでくださって、ありがとうございました」

 宵はすぐには答えなかった。
 ただ困ったように眉を寄せ、小さく息を吐く。その吐息には諦めにも似た響きが混じっていた。

「……そう」

 短い返事だった。けれど、その声に拒絶はなかった。