宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

「無理をなさらないでください」
「この程度、無理のうちに入らないよ」
「そういうところが、無理をしていると言うのです」

 宵は水を飲みながら小さく笑った。
 その時になって初めて、透子は自分がまだ宵の手を握ったままだと気づいた。昨夜、意識を失う寸前の宵が離すなと言うように掴んだ手を、透子はいつの間にかそのまま握り返していたらしい。

 慌てて離そうとすると、指先をそっと掴まれた。
 透子は思わず動きを止める。宵もまた、自分がそうしたことに気づいたのだろう。視線を逸らし、どこか気まずそうに顔を背けた。

「勘違いしないで。熱で力が入らないだけ」
「そうかもしれません」
「信じてないね」
「ええ、まあ」
「なんか性格悪くなった?」
「旦那様のそばにいるからでしょうか」

 今度こそ宵は笑った。
 人を遠ざけるような言葉ばかり口にするくせに、本当に離れていこうとすると、こうして無意識のうちに引き留めてしまう。そのちぐはぐさが、透子には不思議でならなかった。そして同時に、少しだけ愛おしくも思えた。
 そんなことを考えてしまう自分が危ういことも、分かっているはずなのに。

「旦那様」
「何」
「昨夜、名前を呼んでくださいました」

 宵の表情が分かりやすく止まった。
 透子は目を逸らさなかった。今ここで口にしなければ、きっと彼は何事もなかったように忘れたふりをする気がしたからだ。

「嬉しかったです」

 宵はただ視線を外し、障子の向こうへ目を向けた。夜と朝の境目のような淡い光が、端正な横顔を照らしている。
「忘れて」

 やがて落ちてきた声は小さい。まるで、その話題から逃げたいと言っているようだった。

「嫌です」

 透子が即座に返すと、宵は本当に困ったような顔をした。

「そこは、はい、と言うところじゃないの」
「ほかのことなら考えますが、これだけは嫌です」
「名前くらいで泣くなんて、変だよ」
「そうかもしれません」
「否定しないんだ」
「嘘はつけないので」

 透子は素直に頷いた。名前を呼ばれることが、あれほど胸を震わせるものだとは知らなかった。家族から与えられなかったものを、昨夜の宵は切羽詰まった声で与えてくれた。その事実を、なかったことにはしたくなかった。