宵は自室へ運ばれた。
医師と陰陽寮の術師が呼ばれ、八重が慌ただしく指示を出す。使用人たちの足音が廊下を行き来し、薬の匂いが部屋に満ちた。
透子は部屋の外で待つよう言われた。けれど、どうしても離れられなかった。
扉の前に立ち、両手を握りしめる。自分の手には、まだ宵の温度が残っている。黒い穢れを引き受けた腕。透子の名前を呼んだ声。離さない、と言った手。
思い出すたび、胸が熱くなり、同時に痛んだ。
あの黒い糸は、透子の名を奪おうとした。花嫁という役割だけを見て、透子自身を縛ろうとした。けれど宵は、透子を呼んだ。名前で。その声に、透子は救われた。
「透子様」
八重が部屋から出てきた。顔色は悪いが、少しだけ安堵している。
「旦那様は、命に別状はございません。しばらくお休みになれば、落ち着かれるかと」
「……よかった」
透子は力が抜けそうになった。
「ですが、穢れを深く受けておいでです。今夜は高い熱が出るかもしれません」
「私に、何かできることは」
「透子様もお休みくださいませ」
「でも」
「旦那様が目を覚まされた時、透子様が倒れておいででは、きっとお怒りになります」
透子は黙った。
それは確かにそうだろう。宵は怒る。ひどい言葉を選びながら、きっと怒る。けれどそれを想像すると、少しだけ胸が温かくなってしまう。
「少しだけ、そばにいてはいけませんか」
八重は透子をじっと見る。やがて、静かに頷いた。
「少しだけでございます」
部屋の中は薄暗かった。
寝台に横たわる宵は、いつもの皮肉な笑みを失っていた。額には汗が滲み、左腕には幾重にも札と包帯が巻かれている。
透子はそっと近づいた。
起きている時の宵は、近づけばすぐに笑って刺してくる。けれど今は無防備だった。
白い顔。長い睫毛。少し苦しげに寄せられた眉。こんなにも綺麗な人が、どうしてこんなに痛そうなのだろう。
「旦那様」
呼びかけても返事はない。
透子は寝台のそばに膝をつく。包帯の巻かれていない右手が、布団の上に出ていた。
触れていいのか迷う。けれど、さっき意識を失う前、宵は透子の手を握った。離すな、と言うように。
透子はそっと、その手に指を重ねた。
冷たい。けれど、かすかに力が返ってくる。
宵の唇が小さく動いた。
「……行かないで」
透子は息を止めた。
また、その言葉。車の中で聞いた時と同じ。夢の底から漏れる、幼い声。
「ここにいます」
透子は静かに言った。
「どこにも行きません」
宵の指が、ほんの少し透子の手を掴んだ。弱い力だった。けれど確かに、離そうとしなかった。
透子の胸に、熱いものが満ちていく。
好きになってはいけない。まだ、その言葉は胸の中にある。けれど今だけは、そんな約束よりも、目の前の人の痛みの方がずっと大きかった。
透子は宵の手を握ったまま、そっと目を伏せる。
「宵、さま」
声に出すと、名前が胸に沈んだ。
──宵。昼でも夜でもない、薄紫の時間の名。寂しくて、美しくて、目を逸らせない人。
「私も、行かないでほしいです」
その声は、宵には届かなかったかもしれない。けれど透子は、初めてそれを言葉にした。
誰かにそばにいてほしいと願うこと。誰かがいなくなるのが怖いと感じること。それは、透子にとっても初めてのことだった。
夜は深くなっていく。
南雲家の屋敷は、また静かな闇に包まれていた。けれど透子は、もう最初の夜ほど怖くなかった。
この家には痛みがある。孤独がある。それでも今、透子の手の中には、誰かの冷たい指先がある。
そしてその人は、初めて透子の名を呼んだ。
そのことだけで、夜の底に小さな灯りがともったような気がした。
医師と陰陽寮の術師が呼ばれ、八重が慌ただしく指示を出す。使用人たちの足音が廊下を行き来し、薬の匂いが部屋に満ちた。
透子は部屋の外で待つよう言われた。けれど、どうしても離れられなかった。
扉の前に立ち、両手を握りしめる。自分の手には、まだ宵の温度が残っている。黒い穢れを引き受けた腕。透子の名前を呼んだ声。離さない、と言った手。
思い出すたび、胸が熱くなり、同時に痛んだ。
あの黒い糸は、透子の名を奪おうとした。花嫁という役割だけを見て、透子自身を縛ろうとした。けれど宵は、透子を呼んだ。名前で。その声に、透子は救われた。
「透子様」
八重が部屋から出てきた。顔色は悪いが、少しだけ安堵している。
「旦那様は、命に別状はございません。しばらくお休みになれば、落ち着かれるかと」
「……よかった」
透子は力が抜けそうになった。
「ですが、穢れを深く受けておいでです。今夜は高い熱が出るかもしれません」
「私に、何かできることは」
「透子様もお休みくださいませ」
「でも」
「旦那様が目を覚まされた時、透子様が倒れておいででは、きっとお怒りになります」
透子は黙った。
それは確かにそうだろう。宵は怒る。ひどい言葉を選びながら、きっと怒る。けれどそれを想像すると、少しだけ胸が温かくなってしまう。
「少しだけ、そばにいてはいけませんか」
八重は透子をじっと見る。やがて、静かに頷いた。
「少しだけでございます」
部屋の中は薄暗かった。
寝台に横たわる宵は、いつもの皮肉な笑みを失っていた。額には汗が滲み、左腕には幾重にも札と包帯が巻かれている。
透子はそっと近づいた。
起きている時の宵は、近づけばすぐに笑って刺してくる。けれど今は無防備だった。
白い顔。長い睫毛。少し苦しげに寄せられた眉。こんなにも綺麗な人が、どうしてこんなに痛そうなのだろう。
「旦那様」
呼びかけても返事はない。
透子は寝台のそばに膝をつく。包帯の巻かれていない右手が、布団の上に出ていた。
触れていいのか迷う。けれど、さっき意識を失う前、宵は透子の手を握った。離すな、と言うように。
透子はそっと、その手に指を重ねた。
冷たい。けれど、かすかに力が返ってくる。
宵の唇が小さく動いた。
「……行かないで」
透子は息を止めた。
また、その言葉。車の中で聞いた時と同じ。夢の底から漏れる、幼い声。
「ここにいます」
透子は静かに言った。
「どこにも行きません」
宵の指が、ほんの少し透子の手を掴んだ。弱い力だった。けれど確かに、離そうとしなかった。
透子の胸に、熱いものが満ちていく。
好きになってはいけない。まだ、その言葉は胸の中にある。けれど今だけは、そんな約束よりも、目の前の人の痛みの方がずっと大きかった。
透子は宵の手を握ったまま、そっと目を伏せる。
「宵、さま」
声に出すと、名前が胸に沈んだ。
──宵。昼でも夜でもない、薄紫の時間の名。寂しくて、美しくて、目を逸らせない人。
「私も、行かないでほしいです」
その声は、宵には届かなかったかもしれない。けれど透子は、初めてそれを言葉にした。
誰かにそばにいてほしいと願うこと。誰かがいなくなるのが怖いと感じること。それは、透子にとっても初めてのことだった。
夜は深くなっていく。
南雲家の屋敷は、また静かな闇に包まれていた。けれど透子は、もう最初の夜ほど怖くなかった。
この家には痛みがある。孤独がある。それでも今、透子の手の中には、誰かの冷たい指先がある。
そしてその人は、初めて透子の名を呼んだ。
そのことだけで、夜の底に小さな灯りがともったような気がした。


