宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 名前を呼ばれることが、こんなにも胸を締めつけるものだと知らなかった。家族に呼ばれても、晴臣に呼ばれても、今ほど胸は震えなかった。

 それはきっと、宵がただ名を呼んだのではないからだ。透子を失わないために。透子を取り戻すために。役割ではなく、透子自身を呼んだから。

 目の奥が熱くなる。
 宵がそれに気づき、ひどく困った顔をした。

「なんで泣くの」
「……嬉しくて」
「そんなことで?」

 宵にとってはそうなのだろう。けれど透子にとっては違う。
「名前を呼ばれるのは、そんなことではありません」

 涙が頬を落ちる。透子はそれを拭う余裕もなかった。

「私には、嬉しいことです」

 宵は何も言わなくなった。
 いつものように茶化すことも、性格の悪い言葉で逃げることもできないようだった。ただ、透子を見ている。その顔は、傷ついたようにも、泣きそうにも見えた。

「……君は」

 宵がかすれた声で言う。

「本当に、困る」
「はい」
「そこは否定して」
「旦那様がよくおっしゃるので」

 透子がそう返すと、宵は短く息を吐いた。笑ったのかもしれない。
 けれど次の瞬間、彼の身体がぐらりと傾いた。

「旦那様!」

 透子は咄嗟に支えようとする。けれど宵は思ったより重く、透子の腕にはほとんど力が入らなかった。黒く染まった左腕が、だらりと落ちる。

 廊下から八重たちが駆け込んでくる。

「旦那様!」

 宵は意識を失う寸前、透子の手をもう一度だけ強く握った。まるで、離すなと言うように。
 そして小さく呟いた。

「……行かないで」

 その言葉は、透子へ向けられたものだったのか。あるいは、もっと遠い過去の誰かへ向けられたものだったのか。

 透子には分からなかった。
 けれど、その声があまりに幼く、寂しく、頼りなかったから、透子は胸が裂けそうになった。