「離さない」
掠れた声だった。
「絶対に」
その言葉が落ちた瞬間、透子の胸の奥で何かがほどけた。
黒い糸が、宵の腕へ移る。透子を縛っていた冷たさが、一気に引いていく。代わりに、宵の左腕が肩口まで黒く染まった。
「旦那様!」
宵は答えない。透子の手を掴んだまま、反対の手で札を握り潰すように印を結ぶ。
「返せ」
地を這うような低い声が部屋に響いた。
「その名は、お前のものじゃない」
黒い糸が悲鳴のような鈴の音を立てた。
――ちりん。ちりん、ちりん。
糸は裂け、畳の上で黒い灰になって崩れていく。
最後に、女の声がした。
――愛されたかった。
その声があまりに悲しくて、透子は胸元を押さえた。
次の瞬間、すべての糸が消えた。
部屋に残ったのは、焦げた札の匂いと、荒い呼吸の音だけだった。
透子は立っていられず、膝から崩れそうになる。宵がそれを抱きとめた。強く、息が苦しいほどに。
「透子」
また、名前。
その声は、もう怒っていなかった。震えていた。
「怪我は」
「……ありません」
「本当に?」
「はい」
宵の腕が、ほんの少し強くなる。
「よかった」
小さな声だった。
透子は目を見開く。こんな声を、宵が出すなんて知らなかった。余裕も皮肉も、意地悪な笑みもない。ただ、失うのが怖かった人の声。
「旦那様」
呼びかけると、宵ははっとしたように身体を離した。けれど、透子の手だけは離さなかった。自分でも気づいていないのかもしれない。黒く染まった指が、透子の手をまだ握っている。
「……今のは」
透子が言いかけると、宵は顔を背けた。
「忘れて」
「嫌です」
宵の目が揺れる。
「花嫁さん」
「今、呼んでくださいました」
「緊急時だったから」
「それでも、呼んでくださいました」
「透子」
思わず、といったように、また名が落ちた。
宵自身が息を止める。透子も、動けなくなった。
掠れた声だった。
「絶対に」
その言葉が落ちた瞬間、透子の胸の奥で何かがほどけた。
黒い糸が、宵の腕へ移る。透子を縛っていた冷たさが、一気に引いていく。代わりに、宵の左腕が肩口まで黒く染まった。
「旦那様!」
宵は答えない。透子の手を掴んだまま、反対の手で札を握り潰すように印を結ぶ。
「返せ」
地を這うような低い声が部屋に響いた。
「その名は、お前のものじゃない」
黒い糸が悲鳴のような鈴の音を立てた。
――ちりん。ちりん、ちりん。
糸は裂け、畳の上で黒い灰になって崩れていく。
最後に、女の声がした。
――愛されたかった。
その声があまりに悲しくて、透子は胸元を押さえた。
次の瞬間、すべての糸が消えた。
部屋に残ったのは、焦げた札の匂いと、荒い呼吸の音だけだった。
透子は立っていられず、膝から崩れそうになる。宵がそれを抱きとめた。強く、息が苦しいほどに。
「透子」
また、名前。
その声は、もう怒っていなかった。震えていた。
「怪我は」
「……ありません」
「本当に?」
「はい」
宵の腕が、ほんの少し強くなる。
「よかった」
小さな声だった。
透子は目を見開く。こんな声を、宵が出すなんて知らなかった。余裕も皮肉も、意地悪な笑みもない。ただ、失うのが怖かった人の声。
「旦那様」
呼びかけると、宵ははっとしたように身体を離した。けれど、透子の手だけは離さなかった。自分でも気づいていないのかもしれない。黒く染まった指が、透子の手をまだ握っている。
「……今のは」
透子が言いかけると、宵は顔を背けた。
「忘れて」
「嫌です」
宵の目が揺れる。
「花嫁さん」
「今、呼んでくださいました」
「緊急時だったから」
「それでも、呼んでくださいました」
「透子」
思わず、といったように、また名が落ちた。
宵自身が息を止める。透子も、動けなくなった。


