宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 ――旦那様。

 そう思った瞬間、遠くで足音がした。
 軽い足音。けれど、いつもより速い。廊下を走る音。襖の向こうで、誰かが息を呑む気配がした。

 次の瞬間。

「――透子!」

 その声が、闇を裂いた。
 透子は息ができないまま目を見開く。

 ――透子。今、たしかに。

 花嫁さんではなく。奥方様でもなく。役割でもなく。
 透子、と――名を、呼ばれた。

 襖が荒々しく開く。
 そこには軍服姿の宵が立っていた。髪は乱れ、顔色は失われている。左腕には白い手袋がなく、手首から指先まで黒く染まっていた。息が荒い。いつもの余裕などどこにもない。
 ただ、真っ青な顔で透子を見ていた。

「透子!」

 二度目の声。怒ったような、泣きそうな、必死な声。その響きだけで、透子の中に絡みついていた黒がわずかに緩む。

 ──私はここにいる。私は花嫁ではなく、透子。この人が、今、そう呼んだ。

 宵が札を投げた。
 白い光が弾け、黒い糸の一部が焼ける。けれど、糸はすぐに増えた。畳の下から、襖の隙間から、障子の影から、いくつもの糸が透子へ絡みつこうと伸びてくる。
 宵の目が冷たく凍る。

「僕の花嫁に触るな」

 低い声だった。
 それは怒りだった。けれど、怒りだけではない。恐怖。焦り。失うことへの激しい拒絶。宵自身も気づいていないような感情が、その声の奥で震えていた。

 宵は左手で印を切った。黒く染まった腕から、さらに深い穢れが滲む。

「南雲の名において命じる。――縛れ」

 床に貼られていた封じ札が一斉に光った。
 黒い糸が動きを止める。しかし、透子の喉に巻きついた一本だけは離れなかった。それはまるで最後の執着のように、透子の名を探している。
 宵が歯を食いしばった。

「透子」

 今度の声は、低く、震えていた。

「手、出して」

 透子は必死に腕を伸ばす。糸が引く。首が痛い。息ができない。けれど、宵の手がすぐそこにある。

 白い手袋のない、黒く染まった手。怖いはずなのに、怖くなかった。

 あの手は痛みを引き受ける手だ。他人の穢れを自分へ移してしまう手。そして今、透子を助けようとしている手。

 指先が触れた。
 その瞬間、宵は透子の手を掴んだ。痛いほど強く。