宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 その時だった。
 ちりん、と。どこかで鈴の音がした。

 透子は顔を上げた。風鈴ではない。南雲家の軒に吊るされた魔除けの鈴とも違う。もっと近い。もっと湿った音。

 ちりん――今度は、襖の向こうから。

 透子の指が湯呑から離れる。部屋の空気が急に冷えた。
 障子の紙が、内側からではなく外側からゆっくり暗く染まっていく。まるで、墨を含んだ水が紙の繊維を伝うように。

 これは悪意だ。けれど、ただの悪意ではない。寂しさ。置いていかれた痛み。誰かを呼び続けて、誰にも振り返ってもらえなかった声。それが黒く沈んでいる。

 襖の隙間から、何か細いものが入り込んだ。
 黒い糸だった。
 濡れた髪のような、細く長い糸。一本、二本、三本。それは畳の上を這い、透子の方へ伸びてくる。

 透子は立ち上がった。

「誰か」

 声を出そうとした瞬間、糸が動いた。生き物のように素早く、透子の足首へ絡みつく。冷たい。ぞっとするほど冷たい。

「っ……!」

 透子は咄嗟に手を伸ばし、近くの文机を掴んだ。けれど糸は足首から膝へ、腰へ、腕へと絡み上がってくる。力は強くない。なのに逃げられない。まるで、身体ではなく名前や記憶に絡みついているようだった。

 ――花嫁。
 声がした。
 女の声。一人ではない。何人もの声が重なっている。

 ――愛されない花嫁。
 透子の喉が震える。

「違……」

 違う、と言いたかった。けれど、何が違うのか分からない。
 愛されない。その言葉は、透子の奥深くに沈んでいたものへ触れた。家族に名を呼ばれなかった日。晴臣が自分を選ばなかった日。誰も悪人ではないのだと、自分に言い聞かせてきた長い時間。

 黒い糸が、その記憶を撫でる。優しく。残酷に。

 ――こちらへ。
 ――名をちょうだい。

 その言葉を聞いた瞬間、透子の背筋が凍った。
 名前を奪われる。理由は分からない。けれど本能が叫んでいた。それだけは駄目だ。名前を渡してはいけない。

 この糸は、透子を呼んでいるようで、透子を見ていない。花嫁という役割だけを見ている。透子という名を、ただ縛るために欲しがっている。

「いや……」

 透子は糸を振りほどこうとした。しかし黒い糸は腕に絡み、肩へ、首へと這い上がる。息が苦しい。声が出ない。胸の中に、冷たい水が流れ込むようだった。

 ――ひとり。
 ――置いていかれる。
 ――誰も呼ばない。
 ――誰も選ばない。

 透子は目を見開いた。その声は、あまりにも近かった。他人の痛みのはずなのに、自分の痛みと響き合ってしまう。

 寂しい。苦しい。見てほしかった。名前を呼んでほしかった。必要だと言ってほしかった。

 透子の中の、誰にも見せなかった空白が、黒い糸に引き寄せられていく。

 このままでは引きずり込まれる。
 そう思った。けれど身体が動かない。糸が喉へ巻きつき、声が奪われる。
 助けて、と言いたかった。
 誰を呼ぶのか、考えるより先に心が答えを知っていた。