宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 夕刻になっても、宵は戻らなかった。
 帝都の空は曇り、庭には早い夕闇が落ちている。北棟の廊下には封じ札が増やされ、使用人たちの足音もいつもより控えめだった。

 夕餉は八重に勧められるまま、一人で取った。味はよく分からない。箸を置くたびに、耳が廊下の音を拾う。

 宵の足音を待っている。そう気づいて、透子は心の奥が落ち着かなくなった。

 待っています。朝、自分でそう言った。だから待っているだけだ。夫として、南雲家の当主として、彼が無事に戻るのを待つのは当然のことだ。

 そう自分に言い聞かせた。けれど、どれほど理由を並べても、心は言うことを聞かなかった。
 宵が無事でいてほしい。それだけが、胸の奥にまっすぐ残る。

 夜が深くなる頃、八重が透子の部屋へ茶を運んできた。

「旦那様は先ほどお戻りになりました」
「本当ですか」

 透子は思わず顔を上げる。
 八重は小さく頷いた。

「ただ、そのまま北棟へ。軍府の方々と報告があるそうです」
「お怪我は」
「……少し、お疲れのご様子でした」

 それは、かなり無理をしているという意味なのだろう。
 透子は茶碗を見つめる。

「会いに行っては、駄目でしょうか」
「旦那様は、奥方様にはお休みいただくようにと」
「そうですか」
「ですが」

 八重は少しだけ迷ったあと、声を落とした。

「今夜は、北棟に近づかない方がよろしいかと。門前の封じ札が一枚、黒く焦げておりました。旦那様が処理なさいましたが、念のため」

 八重はそこで言葉を切る。

「お部屋から出られませんよう」
「……はい」

 透子は頷いた。
 八重が部屋を出ていくと、静けさが戻る。外では風が鳴っている。障子の向こうで庭木が揺れ、影が畳の上を細く流れた。

 透子は寝台に入る気になれず、文机の前へ座った。
 北棟の灯りは、まだ消えない。宵はそこにいる。同じ屋敷の中にいるのに、ひどく遠く感じる。

 いつもそうだ。宵は近くにいるようで、決して触れさせない。心配すれば笑い、優しくすれば逃げ、近づけば離婚という言葉を置く。なのに、危ない時には透子の前に立つ。

 矛盾している。ひどい人だ。本当に、面倒な人だ。
 透子は湯呑を両手で包み、小さく息を吐いた。

「……無事なら、いいのですけれど」

 誰に聞かせるでもなく呟く。