その日、南雲家はどこか落ち着つきがなかった。
表立って騒がしいわけではない。使用人たちはいつも通り静かに動き、八重も普段と変わらぬ顔で家の内向きを差配していた。けれど、透子には見える。人々の胸の奥に、小さな不安が沈んでいるのが。
南雲の花嫁を迎えに行く。
あの脅迫状のことを、使用人たちの多くが知っているのだろう。廊下ですれ違うたび、彼らは透子へ丁寧に頭を下げる。けれどその視線の奥には、心配と恐れが混じっていた。
透子は申し訳なく思った。自分がいることで、この屋敷に余計な不安を増やしているのではないか。そう思うと、部屋でじっとしていることができず、昼過ぎには八重の手伝いを申し出ていた。
「透子様、どうかお休みくださいませ」
「何かしていた方が落ち着くのです」
「ですが」
「危ないものには触りません。北棟にも近づきません」
透子が先回りして言うと、八重は少しだけ笑った。
「旦那様と同じことをおっしゃいますね」
「旦那様と?」
「はい。奥方様は危ないものに触るから、仕事を与えて目を離すな、と」
透子は目を瞬いた。
「それは、信用されていないということでしょうか」
「心配しておいでなのです」
「旦那様は心配ではないとおっしゃいます」
「旦那様は、心配という言葉をたいそう嫌っておられますから」
八重は穏やかに言った。
「ですが、心配していない人間は、あのように何度も念を押しません」
透子は返事に困った。
宵は心配している。そう思うと嬉しい。けれど、嬉しいと思うこと自体が危うい気がした。
透子は曖昧に微笑み、八重と共に反物の整理を始めた。
古い桐箪笥から取り出された反物は、どれも上等なものだった。落ち着いた色合いが多く、南雲家らしい。派手な紅や金ではなく、藍、藤鼠、深緑、墨色。静かで、品があって、どこか夜に似合う色ばかりだった。
その中に、淡い薄紅の反物が一つあった。
透子が手を止めると、八重が目を細める。
「そちらは、先代奥方様がお若い頃に好まれたものです」
「先代奥方様……旦那様のお母様ですか」
「はい」
八重の声が少しだけ低くなる。
「現在は離れで静養されております」
「離れに」
透子は庭の向こうに見える、洋館造りの離れを思い出した。初めて南雲家へ来た朝、白い硝子窓の向こうにひっそりと佇んでいた建物。そこからは、薄い金色の孤独が時折漂ってくる。
宵の黒とは違う。もっと脆く、美しく、儚げな色だった。
「旦那様は、お母様と」
言いかけて、透子は口を閉じた。聞いてはいけない気がした。
八重もそれ以上は言わなかった。ただ、淡い薄紅の反物を丁寧に畳み直す。
「旦那様は、昔から多くをお話しになる方ではございません」
「……そうですね」
「けれど、何も感じていないわけではないのです」
その言葉は、まるで宵のための弁明のようだった。
透子は反物に触れながら頷く。
「分かります」
何も感じていないわけではない。むしろ宵は、感じすぎる人なのかもしれない。だから笑う。だから突き放す。だから、優しくしないでと言う。
透子は自分の指先を見た。
人の痛みが見える力。何の役にも立たないと思っていたそれを、宵は「使える」と言った。君の実家は人を見る目がない、とも。
それは乱暴で、失礼で、宵らしい言い方だった。けれど、透子の中の何かを確かに救った。
名前を呼ばれたわけではない。愛されたわけでもない。それでも、初めて自分の中にあるものを否定されなかった。その記憶は、思いのほか温かい。
表立って騒がしいわけではない。使用人たちはいつも通り静かに動き、八重も普段と変わらぬ顔で家の内向きを差配していた。けれど、透子には見える。人々の胸の奥に、小さな不安が沈んでいるのが。
南雲の花嫁を迎えに行く。
あの脅迫状のことを、使用人たちの多くが知っているのだろう。廊下ですれ違うたび、彼らは透子へ丁寧に頭を下げる。けれどその視線の奥には、心配と恐れが混じっていた。
透子は申し訳なく思った。自分がいることで、この屋敷に余計な不安を増やしているのではないか。そう思うと、部屋でじっとしていることができず、昼過ぎには八重の手伝いを申し出ていた。
「透子様、どうかお休みくださいませ」
「何かしていた方が落ち着くのです」
「ですが」
「危ないものには触りません。北棟にも近づきません」
透子が先回りして言うと、八重は少しだけ笑った。
「旦那様と同じことをおっしゃいますね」
「旦那様と?」
「はい。奥方様は危ないものに触るから、仕事を与えて目を離すな、と」
透子は目を瞬いた。
「それは、信用されていないということでしょうか」
「心配しておいでなのです」
「旦那様は心配ではないとおっしゃいます」
「旦那様は、心配という言葉をたいそう嫌っておられますから」
八重は穏やかに言った。
「ですが、心配していない人間は、あのように何度も念を押しません」
透子は返事に困った。
宵は心配している。そう思うと嬉しい。けれど、嬉しいと思うこと自体が危うい気がした。
透子は曖昧に微笑み、八重と共に反物の整理を始めた。
古い桐箪笥から取り出された反物は、どれも上等なものだった。落ち着いた色合いが多く、南雲家らしい。派手な紅や金ではなく、藍、藤鼠、深緑、墨色。静かで、品があって、どこか夜に似合う色ばかりだった。
その中に、淡い薄紅の反物が一つあった。
透子が手を止めると、八重が目を細める。
「そちらは、先代奥方様がお若い頃に好まれたものです」
「先代奥方様……旦那様のお母様ですか」
「はい」
八重の声が少しだけ低くなる。
「現在は離れで静養されております」
「離れに」
透子は庭の向こうに見える、洋館造りの離れを思い出した。初めて南雲家へ来た朝、白い硝子窓の向こうにひっそりと佇んでいた建物。そこからは、薄い金色の孤独が時折漂ってくる。
宵の黒とは違う。もっと脆く、美しく、儚げな色だった。
「旦那様は、お母様と」
言いかけて、透子は口を閉じた。聞いてはいけない気がした。
八重もそれ以上は言わなかった。ただ、淡い薄紅の反物を丁寧に畳み直す。
「旦那様は、昔から多くをお話しになる方ではございません」
「……そうですね」
「けれど、何も感じていないわけではないのです」
その言葉は、まるで宵のための弁明のようだった。
透子は反物に触れながら頷く。
「分かります」
何も感じていないわけではない。むしろ宵は、感じすぎる人なのかもしれない。だから笑う。だから突き放す。だから、優しくしないでと言う。
透子は自分の指先を見た。
人の痛みが見える力。何の役にも立たないと思っていたそれを、宵は「使える」と言った。君の実家は人を見る目がない、とも。
それは乱暴で、失礼で、宵らしい言い方だった。けれど、透子の中の何かを確かに救った。
名前を呼ばれたわけではない。愛されたわけでもない。それでも、初めて自分の中にあるものを否定されなかった。その記憶は、思いのほか温かい。


