宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 けれど宵の意識を引いたのは、その悲しみではなかった。無数の声が沈む底に、ひとつだけ異質なものが残っている。

 それは嘆きではなく執着だった。泣くことをやめた人間だけが持つ冷たさで、じっと何かを見つめ続けている。

 その気配へ意識を向けた途端、黒い水の底から誰かがこちらを振り向いたような感覚が走った。

 名前も顔も分からない。男なのか女なのかさえ判然としない。それでも、その存在だけは異様なほど鮮明だった。

 長い時間をかけて積み上げられた怨念と執着を抱え込みながら、ただ一つのものだけを見失わずにいる。

 ――南雲。
 囁きは耳から聞こえたわけではなかった。
 穢れの奥に沈んでいた意思が、不意にこちらへ視線を向けたような感覚だった。

 宵の目が細められる。
 周囲では香坂家当主が何かを話していたし、術者たちも報告書をめくっている。けれど、それらの音は遠かった。黒い糸の奥にいる何者かだけが、妙に近い。

 ――南雲の花嫁。
 その言葉が浮かび上がった瞬間、卓上の黒い糸が音もなく燃え上がった。

 黒い炎だった。紙も木も焦がさないまま揺らめき、糸だけを包み込んで灰へ変えていく。

 香坂家当主が息を呑み、術者の一人が思わず立ち上がる気配がしたが、宵は燃え崩れていく灰を見つめたまま動かなかった。

 術式の構造が読めないわけではない。痕跡が追えないわけでもない。それなのに、何かを見落としているような感覚だけが残る。

 目に見えない手が、どこかへ伸びている。
 その先を考えた瞬間、脳裏へ浮かんだのは透子だった。
 朝餉の席で薬を飲めと叱った顔。真面目な顔で無理をしないでくださいと言った声。そして、待っています、と言った時の表情。

 思い出した途端、自分でも説明のつかない焦燥が胸の奥で形を持った。

 南雲家の結界は堅牢だ。八重もいる。封じ札もある。そう簡単に何かが入り込める場所ではない。

 そんなことは分かっている。分かっているのに落ち着かなかった。
 理由のない不安ほど始末に悪いものはない。

 宵は小さく息を吐き、卓上へ残った灰から視線を外した。
 考えても答えは出ない。けれど、このままここにいる気にもなれなかった。
 椅子を引いて立ち上がると、室内にいた術者たちが一斉に顔を上げる。

「少将?」

 榊の声に、宵は軍帽を手に取りながら振り返った。

「残りの解析は任せる」

 その言葉に術者たちが顔を見合わせる。まだ調べるべきことは残っている。誰もがそう思ったのだろう。けれど宵は構わなかった。

「結果が出たら軍府へ報告して」
「お戻りになるのですか」

 榊が尋ねる。
 宵は答える代わりに窓の外へ目を向けた。
 曇天が帝都を覆い始めている。風も出ていた。雨になるかもしれない。

「少し気になることがある」

 それだけ言うと、宵は応接間を後にした。
 廊下を歩きながらも胸の奥のざわつきは消えず、むしろ一歩進むごとに大きくなっていく。

 何も起きていなければ、それでいい。ただの思い過ごしなら、それでいい。
 そう思いながらも足は自然と速くなり、気づけば宵は誰より先に玄関へ向かっていた。