宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 けれど百合乃だけは気づいていないようで。

「最近、花嫁を迎えられたと聞きましたわ。確か如月家の方でしたわね。正直、少し意外でしたの。南雲少将ほどのお方なら、もっと華やかなご令嬢をお選びになるのかと――」

 そこで、宵が報告書を閉じた。紙の擦れる音だけが、妙にはっきり響く。

 宵はゆっくりと顔を上げ、微笑んだ。
 誰が見ても美しい笑みだった。けれどその場にいた者たちは、ほとんど反射的に視線を伏せる。

「話はそれだけ?」

 優しい声だった。
 百合乃はようやく会話が成立したと思ったのか、ほっとしたように笑う。

「ええ、もちろん――」
「妹君が行方不明になっている席で、他人の花嫁の品評ができるなんて、随分と心に余裕があるんだね」

 百合乃の笑みが消えた。

「そ、そのようなつもりでは」
「だろうね。悪意があったとは思っていないよ」

 宵は穏やかに頷いた。

「ただ、自分の言葉が誰を傷つけるのか、考える習慣がないんだなと思っただけ」

 声は静かだった。怒鳴っているわけでもない。けれど、逃げ場を一つずつ塞いでいくような冷たさがあった。

「悪意がある人間は、少なくとも自分が何をしているか知っている。でも君は違う。──悪意より厄介だよ」

 応接間は凍りついたように静まり返った。
 百合乃は言葉を失い、香坂家当主は蒼白になっている。術者たちは誰ひとり顔を上げない。
 しばらくして、宵はようやく百合乃への興味を失ったように視線を外した。

「透子は」

 気づけば、その名が口をついていた。
 宵自身も一瞬だけ眉を動かしたが、すぐに窓の外へ視線を向ける。

「自分から前へ出る人じゃない。けれど、人が苦しんでいることには誰より早く気づく」

 先ほどまでとは違う、淡々とした声だった。

「見なかったことにできないんだ。……そういう人は、案外少ない」

 それだけ言うと、宵は再び卓上の黒い糸へ視線を落とした。

 指先が黒い糸へ触れた瞬間、冬の水へ手を沈めたような冷たさが腕を伝い、そのまま胸の奥まで流れ込んでくる。

 失踪現場に残された穢れへ触れることは珍しくない。人の怨みも悲しみも、南雲の人間である以上、嫌というほど見てきた。それでも、この糸に宿る感情には思わず眉を寄せたくなるような古さがあった。

 愛されたかった、名前を呼んでほしかった、忘れないでほしかった。そんな願いが折り重なり、長い年月をかけて澱んだ水のように沈殿している。

 そこにいるのは失踪した娘たちだけではない。
 もっと昔、この国のどこかで嫁ぎ、名を失い、役目だけを残して忘れられていった女たちの声だった。誰かの娘であり、誰かの妻でありながら、最後には誰にも呼ばれなくなった人たちの寂しさが、黒い糸の奥で静かに腐り続けている。