宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

「面白いことを聞くね」
「すみません」
「謝らなくていいよ。僕は花嫁さんみたいに繊細じゃないから」

 そんなふうに言われたのは初めてだった。
 家では、いつも平気な子だと思われていた。強い、聞き分けがいい、手がかからない。そういう言葉ばかりを向けられてきた透子にとって、繊細という響きは、どこか居心地が悪い。

 透子が黙っていると、宵はまた歩き出した。

「僕にとってはただの家だよ。寒くて、広くて、無駄に古い。あと、使用人がやたら気を遣う」
「皆さま、旦那様を大切に思っていらっしゃるのでは」
「違うよ。怖がってるだけ」

 あっさりとした声音だった。自分のことなのに、まるで他人事のように言っている。

 透子はその背中を見る。
 艶やかな黒い軍服。男の人にしては細い肩。まっすぐ伸びた背筋。今ここに画家がいたならば、間違いなく筆を取って絵に残すであろう美しい立ち姿だった。

 けれど、彼の周りに沈む孤独の色は、やはり濃い。触れてはいけない傷口が、布の下で静かに膿んでいるようだ。

「ここが君の部屋ね」

 宵が襖の前で止まる。開かれた部屋は、思いのほか明るかった。
 庭に面した広い和室だ。隣には洋風の寝室らしい扉があり、低い机と本棚、衣桁、鏡台が整えられている。

「庭に面した部屋にしておいた」

 宵は何でもないことのように言った。

 透子は思わず障子の向こうへ目を向ける。

 そこには手入れの行き届いた庭が広がっていた。陽射しを受けた木々の葉が柔らかく揺れ、その向こうには小さな池も見える。春になれば、きっと花も咲くのだろう。

「旦那様がお決めになったのですか」

 そう尋ねると、宵はあっさり頷いた。

「どうしてでしょう」

「暗い部屋は苦手そうだったから」

 あまりにも自然に返された言葉に、透子は目を瞬いた。

「……そのように見えましたか」

「見えたよ。君、分かりやすいから」

 からかうような口調だった。綺麗な顔には少し意地の悪い笑みも浮かんでいる。

 透子はうまく返事ができなかった。

 苦手そうだと思われたことも、それを気にかけられたことも、これまであまりなかったからだ。

 だからだろうか。自分を見て決めたのだと言われただけで、胸の奥が妙に落ち着かなかった。

 宵はそんな透子の戸惑いなど気づいているのかいないのか、もう興味を失ったように廊下の先へ視線を向けている。

 それなのに、その言葉だけは妙に胸に残った。

 まるで、自分でも知らないうちに置き去りにしていた何かへ、そっと触れられたような気がしたのだ。

「ありがとうございます」
「ただし、屋敷の北棟には入らないこと」

 宵の声音が少しだけ低いものに変わる。

「北棟、ですか」
「そう。陰陽寮関連の資料や、処理前のものが置いてある。花嫁さんが見て楽しいものじゃないから」
「分かりました」
「あと、夜に屋敷を歩き回らないこと。迷うし、たまに変なものがいる」
「……変なもの」
「君の実家では見ないようなものかな」

 宵はにっこりと笑った。

「見たいなら止めないけど、たぶん後悔するよ」
「……見ません」
「賢明な判断だね」

 透子は部屋を見回した。何も不足はない。むしろ、実家で与えられていた部屋よりずっと整っている。

 けれど、不思議だった。ここには初めから、透子のために用意されたものがある。誰かに居場所を与えられることが、こんなにも落ち着かないものだとは知らなかった。

 実家では、透子のものはいつも後回しだった。彩子の支度が先で、父の用事が先で、母の客人が先だった。

 透子はそれを待つことに慣れていた。欲しいものを欲しいと言わないことも、足りないものを足りないと言わないことも。

 そうしている方が楽だったからだ。
 だから、こうして自分のためだけに整えられた部屋を前にすると、どう反応すればいいのか分からない。