「花嫁さん」
「はい」
「僕の痛そうなところを見つけても、何もいいことはないよ」
「いいことがあるから見るわけではありません」
「それが困る」
宵はよくそう言う。困る、面倒、厄介。そういう言葉で、触れられたくないものを覆い隠す。
透子はまだ、その覆いの下を見たいと思ってはいけないと分かっている。けれど、もう見えないふりはできなかった。
「無理をしないでください」
透子は静かに言った。
「約束はできない」
「では、努力してください」
「努力かあ」
「旦那様にしては誠実な返事なのでしょう?」
以前の言葉を返すと、宵は少し目を丸くした。それから、声を抑えて笑う。
「覚えてたんだ」
「はい」
「君、意外と執念深いね」
「旦那様ほどではありません」
「僕が執念深いって知ってるの?」
「されたことも、言われたことも、忘れなさそうです」
宵の笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。当たっているのだろう、と透子は思った。
「そうだね」
宵は何でもないことのように言う。
「僕は忘れないよ。良いことも、悪いことも。悪いことの方が少し覚えやすいけど」
その言葉が、なぜか胸に残った。
宵は立ち上がる。
「じゃあ行ってくる」
「はい」
透子も立ち上がった。玄関まで見送るつもりだったが、宵は手で制する。
「見送りはいらない」
「なぜですか」
「夫婦っぽいから」
「……一応、夫婦では」
「そういうところでだけ律儀になるね」
宵は苦笑し、廊下へ出る。
しかし数歩進んだところで、ふと振り返った。
「花嫁さん」
「はい」
「勝手にいなくならないでね」
透子は瞬きをした。
「どこへですか」
「どこでも」
宵は少し目を細める。
「帰ってきた時、消えてたら面倒だから」
また、そうやって言う。本当の言葉を少しだけずらして、ひどい言い方に変えてしまう。けれど透子は、もうそのずれに気づいていた。
「分かりました。待っています」
その瞬間、宵の表情が止まった。
ほんの一瞬。けれど確かに、彼は言葉を失った。
待っています。
たったそれだけの言葉が、宵のどこかに触れたのだと分かった。
「……うん」
返事は小さかった。宵はそれ以上何も言わず、少しだけ急ぐように廊下を去っていく。
透子はその背中を見送った。黒い軍服の後ろ姿が曲がり角の向こうに消えてからも、しばらく動けなかった。


