透子はその笑みを見て、心の内側がゆっくり温まるのを感じた。いけない、と思う。けれど、その温かさをすぐに消すことはできなかった。
「お薬は飲まれましたか」
「まずいから嫌い」
「飲んでいませんね」
「どうしてそう断言するの」
「旦那様は都合が悪くなると答えをずらします」
「うわあ、見抜かれてる」
「飲んでください」
「離婚したくなる」
その言葉に、透子の指がぴたりと止まった。
宵はすぐに気づいたらしい。少しだけ目を伏せる。
「冗談だよ」
「……はい」
「本気にした?」
「ええ、まあ」
「君は本当に、面倒なところで素直だね」
そう言いながら、宵は湯呑の隣に置かれていた薬湯の器を手に取った。嫌そうな顔をして一口飲み、すぐに眉をひそめる。
「まずい」
「全部飲んでください」
「花嫁さん、だんだん八重さんに似てきたね」
「八重さんに失礼です」
「僕には?」
「日頃の行いでは」
「ひどいなあ」
宵はそう言いながらも、渋々薬湯を飲み干した。
透子は少しだけ安心する。たったそれだけのことなのに、胸が軽くなる。
宵は空になった器を置き、頬杖をついた。
「そんなに嬉しい?」
「はい」
素直に答えると、宵は目を見開いた。透子も自分で驚いたが、取り繕う気にはなれなかった。
「旦那様が少しでもお身体を大切にされるなら、嬉しいです」
宵は黙った。ほんの短い間だったけれど、その沈黙の中で、彼の周りの黒が微かに揺れたように見えた。
「……そういうことを、簡単に言わないで」
「簡単ではありません」
「じゃあ余計に悪い」
宵は目を逸らす。耳元が少し赤いような気がした。
透子が見つめていると、彼はすぐにいつもの顔へ戻り、薄く笑った。
「今日は帝都西区へ行く」
「またお仕事ですか」
「うん。花嫁失踪事件の調査。消えた三人目の娘の実家に、呪物の残滓が見つかった」
花嫁失踪事件。近頃帝都を騒がせているそれは、婚礼を控えた娘たちが次々と消えているという事件だ。残されたのは黒い糸と、不穏な噂だけ。昨日届いた脅迫状には、南雲の花嫁を迎えに行く、と書かれていた。
南雲の花嫁――それは透子のことだ。
「私も行くのですか」
「今日は留守番」
「そばにいろとおっしゃったのに」
「僕のそばにいるより、屋敷の中にいた方が安全な場合もある」
「旦那様のそばは危険なのですか」
「かなり」
宵はあっさり答えた。
「人間も呪物も寄ってくるし、偉そうな老人にも絡まれる」
「偉そうな老人は、やはり危険なのですね」
「一番危険」
いつかと同じやり取りに、透子は少しだけ笑ってしまう。宵はそれを見て、満足そうに目を細めた。
「いいね。花嫁さんは、笑いを堪えるのが下手だ」
「旦那様が妙なことをおっしゃるからです」
「言うようになったなあ」
宵は楽しそうだった。その表情だけを見ると、これから危険な調査に向かう人とは思えない。けれど透子には、彼の左手に滲む黒が見えていた。
白い手袋の内側。隠されているはずの指先に、穢れの色が沈んでいる。
「旦那様」
「何?」
「すでに、どこかお悪いのではありませんか」
宵の表情が止まった。それから、困ったように笑う。
「君は本当に嫌なところを見るね」
「嫌なところではありません」
「そう?」
「痛そうなところです」
宵はしばらく透子を見ていた。その目には、からかいも皮肉もない。ただ、どう扱えばいいのか分からないものを見るような、静かな戸惑いがあった。


