宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 屋敷へ戻ると、八重が玄関で待っていた。その顔色は明らかに悪い。

「旦那様」
「何」

 宵の声が低くなる。
 八重は透子へ一瞬だけ視線を向け、それから一通の封書を差し出した。

「先ほど、門前に」

 白い封筒だった。
 宵はそれを受け取ると無言で封を切り、中の紙へ目を落とす。

 その瞬間、彼の目がすっと冷えた。
 透子の胸がざわつく。
 紙から滲み出ているのは黒い孤独ではない。もっと粘ついた、誰かの歪んだ執着と悪意だった。
 宵は紙を折りたたみ、透子から見えないように隠した。

「八重さん、屋敷の警備を増やして。北棟だけじゃなく奥向きも」
「かしこまりました」
「使用人の出入りも確認。新しく入った者は全員、僕のところへ」
「はい」

 透子は思わず口を開いていた。

「旦那様」
「君は部屋に戻って」
「その手紙は」
「君には関係ない」
「関係あります」

 宵がゆっくりと透子を見る。
 冷たい目だった。けれど透子は逸らさなかった。

「私は、南雲家の花嫁です」

 その言葉に、宵の表情が分かりやすく揺れる。

「花嫁が狙われているのなら、関係があります」

 しばらく沈黙が落ちたあと、宵は諦めたように息を吐いた。

「本当に、聞き分けが悪い」

 差し出された封書を受け取り、透子は中を見る。
 そこには短い一文だけが書かれていた。

【次は、南雲の花嫁を迎えに行く】

 ぞくりと指先が冷える。けれど恐ろしかったのは手紙だけではなかった。
 宵の方が、よほど怖い顔をしていたからだ。怒鳴りもせず、声を荒げることもなく、ただ静かに怒っている。だからこそ恐ろしい。

「花嫁さん。今日からしばらく、君は僕のそばにいて」

 透子は顔を上げた。

「私が、ですか」
「そう」
「旦那様は、危ないから近づくなと」
「状況が変わった」

 宵は白い手袋を整えた。その仕草は相変わらず優雅で、だからこそ不気味なほど落ち着いて見える。

「君を囮にするつもりはない。でも、僕の目が届かないところに置く方が危ない」
「それは」
「勘違いしないで」

 宵は微笑んだ。けれど、その笑みは少しも甘くない。

「君を心配してるわけじゃないよ」

 宵の声は驚くほど平坦だった。怒っている時ほど、この人は静かになる。
 透子はなぜかそう思った。

「僕の花嫁に手を出されるのが、不愉快なだけ」

 冷たく、美しく、どこまでも傲慢な声音だった。それなのに胸の奥は熱を帯びていく。
 宵は一歩近づき、透子の手から紙を抜き取った。そして少しだけ身を屈める。

「僕のそばを離れないで。花嫁さん」

 それは命令のようでいて、透子にはどこか願いにも聞こえた。
 だからゆっくり頷く。

「はい」

 宵はほんの少しだけ目を細めた。

「いい子」
「子ども扱いしないでください」
「じゃあ、僕の花嫁扱いで」

 言葉に詰まる透子を見て、宵はようやく少しだけ楽しそうに笑った。

「顔、赤い」
「……旦那様のせいです」
「うん。知ってる」

 本当に性格が悪い。そう思うのに、不思議と嫌ではなかった。

 宵は何事もなかったように踵を返し、そのまま廊下の奥へ歩いていく。
 透子はその背中を見つめながら、そっと胸元へ手を当てた。
 南雲家へ来た日には恐ろしいばかりだったその人が、今はなぜか目を逸らせない。
 胸の奥には、まだ名前の分からない熱が残っていた。