宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 南雲家へ戻る車の中で、宵はずっと黙っていた。
 いつもの皮肉も、からかうような言葉もない。
 透子も何を話せばいいのか分からず、ただ窓の外へ視線を向けていた。

 帝都の夕暮れは薄紫に沈み、街並みを淡く霞ませている。
 昼と夜の境目にあるその色は、明るくも暗くもなりきれない曖昧さを帯びていて、不思議と宵という名を持つ彼によく似ている気がした。

 透子はそっと隣を見た。
 宵は目を閉じている。眠っているわけではないだろうと思ったが、疲労の色までは隠しきれていなかった。

 白い手袋に包まれた指先には、うっすらと黒が滲んでいる。それが穢れなのか呪いなのか透子には分からない。
 だから見なかったことにする。きっと宵は、それを望む人だから。

 そう思って視線を落とした時だった。
 不意に宵の身体がわずかに傾き、その肩が透子へ寄る。
 次の瞬間、かすかな重みが肩に触れた。

 透子は息を呑んだ。
 宵は目を閉じたまま動かない。本当に眠ってしまったのかもしれない。
 肩に預けられた重みは驚くほど軽い。それなのに胸の奥はひどく苦しくなった。
 この人も眠るのだ。この人も疲れるのだ。そして時には、誰かに寄りかかってしまうこともあるのだ。
 そんな当たり前のことが、どうしようもなく切なかった。

「……行かないで」

 ぽつりとこぼされた声を聞いて、透子は目を見開いた。それは夢の世界から零れ落ちたような声だった。いつもの余裕も皮肉もなく、幼い子どものように頼りない。

「旦那様?」

 思わず呼びかけると、宵ははっと目を開いた。そして我に返ったように身体を離す。その動きは少し乱暴で、どこか逃げるようでもあった。

「ごめん」

 透子は思わず瞬きをする。
 初めて聞いた。宵の口から謝罪の言葉を。
 驚いて見つめると、宵は窓の外へ視線を向けたまま言った。

「今の、忘れて」
「……はい」
「忘れてない顔」
「努力します」
「努力するんだ」

 宵のその声音は、いつものように皮肉を返すでもなく、面白がるでもなく、どこか力がなかった。
 透子は何も言えなかった。
 胸の奥では、先ほど聞いた言葉が今も静かに波紋のように広がっている。

 ――行かないで。
 熱に浮かされた夢の中から漏れたような声だった。
 あれが誰へ向けられたものなのか、透子には分からない。
 自分ではないのかもしれないし、もっと遠い昔に置いてきた誰かへ向けられたものなのかもしれない。

 けれど、その答えがどちらであったとしても、あの声を聞かなかったことにはできそうになかった。
 宵は普段、自分のことを語らない。困るだの、面倒だのと軽く笑いながら、本当に触れられたくないものだけは巧みに隠してしまう。

 だから透子は、これまで何度も思っていた。この人は近くにいるようでいて、誰にも届かない場所へ立っているのだと。

 けれど先ほどの声だけは違う。取り繕う余裕もなく、零れ落ちたものだ。幼いほど無防備で、痛々しいほど寂しくて、その響きは今も胸の奥に残っている。

 膝の上でそっと指先を握りしめる。
 榊は言っていた。深入りしない方がいい、と。
 宵自身もまた、同じことを口にした。
 ――僕に深入りしない方がいい。
 それはきっと正しい忠告なのだろう。けれど透子は静かに目を伏せた。

 人の痛みに気づいてしまった時、見なかったことにはできない。それは昔から変わらない自分の性分であり、宵が価値があると言ってくれた唯一のものでもあった。
 だからもう、知らないふりだけはできそうになかった。