宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 南雲宵という男は、どうやら本当に性格が悪いらしい。
 透子がそう確信したのは、夫となるその人に出会って、まだ半刻も経たないうちのことだった。

 ――僕のこと、好きになったら離婚だよ。

 自然に告げられたその言葉は、しばらく透子の耳の奥に残り続けた。

 好きになるな、ならまだ分かる。政略結婚なのだから、互いに情を求めないという条件はあり得ない話ではない。まして相手は、軍府の奥に置かれた陰陽寮を実質的に束ねる南雲家の当主である。透子などに最初から愛情を求めていないことくらい、理解していた。

 けれど、好きになったら離婚。そんな言い方をする人間が、この世にいるとは思わなかった。

「花嫁さん」

 宵はこちらの困惑など気にも留めない様子で立ち上がった。

 ──花嫁さん。その呼び方に、透子は小さく瞬きをする。今日一日だけでも、何度そう呼ばれただろう。

 如月家では「次女」。使用人たちには「お嬢様」。父や母から名前を呼ばれることは、いつからかほとんどなくなっていた。

 透子、と呼ばれること。それは当たり前のことだったはずなのに、今では少し遠い。ここでも自分は名前ではなく、花嫁として扱われるのだろうか。
 ちくりと胸の辺りで痛みを感じた。

「部屋に案内するよ。君の荷物、もう運び込ませてあるから」
「……ありがとうございます」
「お礼はいらないよ。廊下に置きっぱなしだと通行の邪魔になるから、移動させただけ」

 透子は返す言葉を失った。
 やはり失礼な人だ。そう思った瞬間、宵が振り向いた。眠たげな目が、ほんの少し愉快そうに細められる。

「今、失礼な男だと思った?」
「……思っておりません」
「嘘が下手だね」

 宵はくすりと笑った。その笑い方は、思わず見入ってしまうほど綺麗だった。

 嫌味で、意地が悪くて、まるで人の心をわざと乱すために微笑んでいるようなのに、目を奪われる。腹が立つくらい顔が良いからだろうか。

「まあいいよ。よく言われることだし」
「よく言われるのですか」
「性格が悪い、口が悪い、根性が曲がっている、血も涙もない。どれもだいたい似たようなものだね」
「……否定はなさらないのですね」
「事実を否定しても仕方ないだろう?」

 宵は悪びれもなくそう言って、廊下へ出た。
 透子は慌ててその後を追う。

 南雲家の屋敷は広かった。
 朝廷に仕える透子の実家も、決して小さな屋敷ではない。けれど南雲家には、広さとは別の独特の圧があった。古い和館の廊下は黒く磨き込まれ、ところどころに洋風の灯りや硝子窓が取り入れられている。障子の向こうには手入れの行き届いた庭が見えたが、不思議と温かさは感じられない。屋敷そのものが息を潜めているようだった。

 廊下を進むたび、透子の目には薄墨のような孤独の色が映った。
 それは人の胸に宿るものとは少し違う。場所に染みついた気配。誰にも言えなかった悲しみや、飲み込まれた言葉が、壁や柱の奥にうっすらと沈んでいる。

「どう? これから君が住むこの屋敷は」
「……少し恐ろしく感じてしまいました」
「正直だね」
「だ……旦那様は、怖くないのですか」
「何が?」
「このお屋敷が」

 宵は歩みを止めた。振り返った顔には笑みが浮かんでいたが、その目は少しも笑っていなかった。