宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 透子は思わず宵を見た。
 怒っているのだと思った。けれど、それだけではない。宵の周囲を漂う孤独の色が、ほんの少しだけ濁っている。
 黒に混じる焦げ茶色が何を意味するのか、透子にはまだ分からない。ただ、宵が晴臣を快く思っていないことだけは確かだった。

「南雲少将」

 晴臣は困ったように笑う。

「私はただ、彼女が心配で」
「心配?」
「はい。透子は昔から我慢するところがありましたから」

 透子の指先が微かに震える。
 知っていたのなら、どうして。どうしてあの時――君なら平気だろう、と言えたのだろう。
 透子は何も言えなかった。けれど宵は笑っていた。

「へえ」

 その一言に、透子は嫌な予感を覚える。

「久世中尉は、彼女が我慢する子だって知ってたんだ」
「ええ、まあ」
「知っていて、いろいろ我慢させたんだね」

 晴臣の表情が固まる。

「それは」
「いや、責めてないよ。面白いなと思っただけ」

 宵は一歩だけ距離を詰めた。その仕草は穏やかなのに、逃げ場だけが消えていく。

「誰とは言わないけど、悪気のない人間ってすごいよね。自分が傷つけたことにも気づかずに、心配だけはできるんだから」
「南雲少将、私は――」
「ごめんね、君の顔を見たらあれもこれも言いたくなっちゃって」

 宵はにこりと笑う。

「でもいいよね。言われないと気づかない頭なんだから」

 廊下が静まり返った。
 晴臣は言葉を失い、透子は思わず息を詰める。

 宵は本当に性格が悪い。その一言に尽きる。けれど同時に、透子の心は震えていた。
 誰かが自分の痛みに気づいている。誰かがその痛みのために怒っている。それがたとえ宵らしい歪な形だったとしても、透子には初めてのことだった。

 晴臣は僅かに眉を寄せ、それから再び透子を見た。

「透子、私はそんなつもりじゃ」

 名前を呼ばれたけれど、不思議と嬉しくはなかった。

「晴臣様。お気遣いありがとうございます。私は大丈夫です」

 また大丈夫と言ってしまった。けれど今度は違う。我慢のためではなく、自分の意思だ。そして今は宵の隣に立っているから。そう思った自分に、透子は少し驚いていた。
 晴臣はなお何か言いたげだったが、宵が先に微笑む。

「だそうだよ、久世中尉」

 そう言ってから透子へ視線を落とした。

「行こうか、花嫁さん。僕、爽やかな善人と長く話すと体調が悪くなる」
「旦那様」
「何?」
「失礼です」
「知ってる」

 透子は小さくため息をつく。それでも宵の隣を離れることはなかった。