宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

「ここでは、見えるもの全部に同情しないこと」
「同情しているつもりは」
「してるよ。君は顔に出る」

 その声音には、いつもの皮肉めいた軽さがなかった。

「放っておけない顔をしていると、利用される」

 透子がそっと見上げても、宵は廊下の先だけを見ていた。

「もし私がここで誰かに絡まれてしまったら、旦那様はどうなさいますか」
「聞かなくても分かることを聞くなんて、君は暇なんだね」

 宵は淡く笑った。

「無論、それなりの対応はさせてもらうよ。……まあ、僕の花嫁に手を出す命知らずが、ここにいるとは思えないけど」

 その時、廊下の向こうから、場違いなほど明るい声が響いた。

「――透子?」

 聞き覚えのある声に、透子は足を止める。それに合わせるように、宵も歩みを止めた。

 視線の先には軍服姿の青年が立っている。
 背筋は真っ直ぐに伸び、短く整えられた黒髪にも乱れはない。まっすぐな眉と穏やかな眼差しは、人から好かれることを疑ったこともないような顔立ちだった。

 その男の名は、久世晴臣。かつて透子の婚約者だった人であり、今は姉である彩子の婚約者だ。

「やはり透子だ」

 晴臣は驚いたように目を見開き、それからすぐ柔らかく微笑んだ。

「久しぶりだね。元気にしていた?」

 その声は昔と変わらない。優しく、明るく、少しの悪意もない。だからこそ透子の胸には、ちくりちくりと針を刺すような痛みが走る。

「……はい。晴臣様も、お変わりなく」
「君が南雲家に嫁いだと聞いて、気になっていたんだ。大丈夫? 何か困っていない?」

 透子は反射のように答えかける。
 ――大丈夫です、と。
 けれど、その言葉が喉元を越えるより先に、宵が口を開いた。

「久世中尉」

 甘い声だった。そしてとても柔らかいのに、妙に冷たい。

「他人の妻を呼び捨てにするのって、最近の流行りなの?」

 晴臣がはっとしたように表情を引き締める。

「南雲少将」

 晴臣は慌てて姿勢を正しながら、頭を下げた。

「失礼いたしました。昔からの知り合いでしたので」
「昔からの知り合い、ね」

 宵はその言葉を舌の上で転がすように繰り返した。

「それは言い訳にならないよ。君は僕の妻の身内でもなければ特別親しい間柄でもない。赤の他人なんだから」
「……申し訳ありません」
「謝罪はいらないよ。謝られると許さなきゃいけない気分になるから」

 宵は微笑んでいる。それなのに空気だけが静かに冷えていく。