「……何か」
「地味だけど似合ってるなって」
「やはり地味なのですね」
「もちろん褒めてるよ」
「それも旦那様にしては、ですか」
「分かってきたね」
満足そうに頷く宵に、透子は小さく息を吐いた。
腹は立つ。けれど、不思議と嫌ではなかった。
宵は踵を返し、軍府の中へ歩き出す。
「行こうか」
「はい」
透子が後に続こうとした時、宵はふいに足を止めた。
「花嫁さん」
「はい」
「僕のそばを離れないこと」
先ほどまでの軽さとは違う声だった。
「何か危険があるのですか」
「軍府は危険な場所だよ。ややこしい人間はいるし、隙あらば喋り出す呪物もあるし、おまけに偉そうな老人もいる」
「偉そうな老人も危険なのですか」
「一番危険」
透子が思わず笑いかけると、宵は愉快そうに目を細めた。
「いいね」
「何がですか」
「花嫁さんは笑いを堪えるのが下手だ」
「旦那様が妙なことをおっしゃるからです」
「言うようになったなあ」
軽口を交わしながらも、宵は自然に歩調を緩めていた。
手を差し出すわけではない。優しい言葉を掛けるわけでもない。けれど、段差の前では足を緩め、透子が迷わないようにわずかに視線を向ける。
そのことに気づいてしまった瞬間、胸の奥からじんわりと温かいものが滲んだ。
――好きになったら離婚。
初めて会った夜の言葉が、ふいに脳裏をよぎる。
忘れたわけではない。忘れてはいけない言葉のはずなのに、宵の背中を見ていると、その輪郭が少しずつ曖昧になっていく気がした。
陰陽寮の廊下は、南雲家の北棟によく似た匂いを纏っていた。
古い紙と墨、乾いた薬草、そして奥底に沈む鉄の匂い。行き交う軍人や陰陽師たちは、宵の姿を認めるたびに背筋を伸ばす。
――南雲少将。
――南雲殿。
――陰陽寮の笑う悪鬼。
呼び名は様々だったが、声に滲むのは敬意よりも畏れに近かった。
透子はその隣を歩きながら、静かに呼吸を整える。
この場所には孤独が多い。軍人たちの胸には押し込められた恐怖があり、陰陽師たちの内には使い捨てられる者の諦めが沈んでいる。上役らしき者たちの周囲には、誰かを犠牲にすることへ慣れすぎた鈍い色が漂っていた。
透子が思わず足を緩めかけた瞬間、前を向いたままの宵が小さく言った。
「見すぎだよ、花嫁さん」
「……すみません」
「謝らない」
「気をつけます」
宵は歩調を変えないまま続けた。
「地味だけど似合ってるなって」
「やはり地味なのですね」
「もちろん褒めてるよ」
「それも旦那様にしては、ですか」
「分かってきたね」
満足そうに頷く宵に、透子は小さく息を吐いた。
腹は立つ。けれど、不思議と嫌ではなかった。
宵は踵を返し、軍府の中へ歩き出す。
「行こうか」
「はい」
透子が後に続こうとした時、宵はふいに足を止めた。
「花嫁さん」
「はい」
「僕のそばを離れないこと」
先ほどまでの軽さとは違う声だった。
「何か危険があるのですか」
「軍府は危険な場所だよ。ややこしい人間はいるし、隙あらば喋り出す呪物もあるし、おまけに偉そうな老人もいる」
「偉そうな老人も危険なのですか」
「一番危険」
透子が思わず笑いかけると、宵は愉快そうに目を細めた。
「いいね」
「何がですか」
「花嫁さんは笑いを堪えるのが下手だ」
「旦那様が妙なことをおっしゃるからです」
「言うようになったなあ」
軽口を交わしながらも、宵は自然に歩調を緩めていた。
手を差し出すわけではない。優しい言葉を掛けるわけでもない。けれど、段差の前では足を緩め、透子が迷わないようにわずかに視線を向ける。
そのことに気づいてしまった瞬間、胸の奥からじんわりと温かいものが滲んだ。
――好きになったら離婚。
初めて会った夜の言葉が、ふいに脳裏をよぎる。
忘れたわけではない。忘れてはいけない言葉のはずなのに、宵の背中を見ていると、その輪郭が少しずつ曖昧になっていく気がした。
陰陽寮の廊下は、南雲家の北棟によく似た匂いを纏っていた。
古い紙と墨、乾いた薬草、そして奥底に沈む鉄の匂い。行き交う軍人や陰陽師たちは、宵の姿を認めるたびに背筋を伸ばす。
――南雲少将。
――南雲殿。
――陰陽寮の笑う悪鬼。
呼び名は様々だったが、声に滲むのは敬意よりも畏れに近かった。
透子はその隣を歩きながら、静かに呼吸を整える。
この場所には孤独が多い。軍人たちの胸には押し込められた恐怖があり、陰陽師たちの内には使い捨てられる者の諦めが沈んでいる。上役らしき者たちの周囲には、誰かを犠牲にすることへ慣れすぎた鈍い色が漂っていた。
透子が思わず足を緩めかけた瞬間、前を向いたままの宵が小さく言った。
「見すぎだよ、花嫁さん」
「……すみません」
「謝らない」
「気をつけます」
宵は歩調を変えないまま続けた。


