宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 翌日、透子は八重から外出の支度を整えるよう告げられた。

「外出、ですか」
「はい。旦那様が、奥方様に軍府へお越しいただくようにと」

 思いがけない言葉に、透子は櫛を持つ指を止めた。
 昨日までの宵は、危ないものへ近づくなと繰り返していた。北棟には入るな、夜に出歩くな、妙なものに触るな。そう言って、ことあるごとに透子を遠ざけようとしていたはずだ。
 それなのに今度は、軍府へ来いという。

「旦那様は、どうして急に」
「それは旦那様から直接お聞きくださいませ」

 八重はそれ以上を語らなかった。その胸の奥には、薄い灰色の不安が沈んでいる。長く南雲家に仕えてきた人らしい諦めと、主を案じる気持ちとが静かに重なっていた。

 何かがあったのだ。
 透子はそう思ったが、問い重ねることはしなかった。

 支度を終え、鏡の前に座る。淡い藤鼠の着物に紺の羽織。華やかではないが、南雲家の花嫁として人前へ出るには相応しい装いだった。

「透子様、お綺麗でございます」

 八重にそう言われ、透子は小さく頭を下げる。

「ありがとうございます。けれど旦那様は、たぶん地味だとおっしゃいます」
「まあ」
「悪い意味ではない、たぶん、と続けながら」

 八重は一瞬きょとんとし、それから堪えきれなくなったように肩を震わせた。

「それは確かに、旦那様らしゅうございますね」

 その笑みに少しだけ救われながら、透子は立ち上がった。
 

 軍府は帝都の北東にあった。
 鉄と石を積み上げた建物群は重々しく、高い塀の向こうでは軍服姿の兵たちが絶えず行き交っている。そのさらに奥には、黒瓦の和風の棟と赤煉瓦の洋館が入り混じった陰陽寮が見えた。軒先には小さな鈴が吊るされ、風もないのに、時折ちりんと鳴る。

 門前で車を降りると、宵はすでにそこにいた。
 黒い軍服に白い手袋。朝の光を受けた黒髪は艶やかに光り、その姿は噂に違わぬ美しさを纏っている。
 けれど、その美しさは人を安心させるものではない。鋭く研がれた刃が、静かに陽を反射しているようだった。

 宵は透子を見るなり、そっと目を細めた。

「おはよう、花嫁さん」
「おはようございます」
「ちゃんと来たんだ」
「旦那様が呼んだのではありませんか」
「そうなんだけどね。逃げるかなと思ってた」
「逃げません」
「偉いね。危機感はないけど根性はある」
「それは褒めていませんよね」
「褒めてるよ。僕にしては」

 いつもの調子に、透子の肩から少しだけ力が抜ける。
 宵は透子の装いへ視線を落とし、数秒黙った。