宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 宵の刻をとうに過ぎても、北棟の執務室にはまだ灯りが残っていた。その灯りの下で、宵は軍府から届いた報告書へ目を通していた。

 机の上には失踪した娘たちの記録が並んでいる。
 消えた花嫁はいずれも、軍府あるいは陰陽寮と縁のある家へ嫁ぐ直前だった。

 誘拐か、呪詛か、それとも別の何かか。
 まだ断定できることは何ひとつない。けれど偶然で片づけられる段階は、とっくに過ぎていた。

 紙をめくる指先が止まる。不意に脳裏へ浮かんだのは、事件のことではなかった。

 ──透子は元気にしているでしょうか。

 今日、久世晴臣が口にした言葉だった。
 あの男らしい、少しの曇りもない声音から悪気は欠片も感じられない。だからこそ厄介だと、宵は思う。
 書類の端を指先でなぞりながら、ふと唇から零れた。

「――透子」

 呼んだ瞬間、宵は微かに眉を寄せる。
 一度も呼んだことのない名前だ。それなのに驚くほど自然に口をついて出たことが、どうにも気に入らない。

「……花嫁さん」

 今度は意識してそう呼び直し、宵はゆっくりと椅子の背へ身体を預けた。

 その方がいい。名前ではなく、花嫁。それは彼女自身ではなく立場を示す呼び名であり、互いの間に必要以上の距離を作ってくれる便利な言葉でもある。

 最初からそうすると決めていたはずなのに、今夜に限っては黒く染まった手巾や、痛そうに歪められた眉ばかりが脳裏に浮かんでは消えなかった。
 そして――放っておけないのです、と言った声。

 宵は深く椅子へ身を預け、ゆっくりと天井を見上げた。

「困るなあ」

 誰もいない部屋へ零れた声は、思った以上に疲れて聞こえた。

 放っておけばいい。突き放せばいい。近づくなと言い続ければいい。そうしてきたはずなのに、あの花嫁は少しずつ距離を詰めてくる。無理に踏み込むわけでもなく、けれど気づけば隣へ立っている。
 あれは反則だ。

「本当に困る」

 小さく吐き出した言葉は、誰にも届かないまま夜へ溶けていく。

 その時、机の隅に置かれていた一通の封筒が視界へ入った。
 軍府から回された匿名の告発文。何度も読み返した短い文面へ、宵は静かに視線を落とす。

【次に消える花嫁は、南雲家にいる】

 窓の外では風が鳴り、木々の影が揺れている。

 宵は封筒を閉じると、ゆっくりと立ち上がった。
 白い手袋をはめ直す仕草はいつも通り優雅だったが、その目には氷のような冷たさが宿っている。

「やってみればいい」

 低く呟いたその言葉は、誰に向けたものでもない。
 けれど確かな敵意だけが、静かに滲んでいた。

「僕の花嫁に手を出せるものならね」

 夜の闇は深い。
 それでもその時だけ、北棟に沈んでいた孤独の色が、静かに刃の形を取ったように見えた。