宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

「聞かなかったら離婚?」
「そういう話ではありません」
「残念」

 即座に返ってきた軽口に、透子は眉を寄せた。

「旦那様」
「はいはい」

 宵は笑いながら立ち上がる。長い脚が畳を跨ぎ、軍服の裾が静かに揺れた。

「努力はするよ。たぶんね」
「たぶん、ですか」
「僕にしてはかなり誠実な返事だと思うけど」

 透子が疑わしそうな目を向けると、宵は楽しそうに肩を揺らした。そうして部屋を出ようとしたところで、不意に何かを思い出したように足を止める。

「そうだ、花嫁さん」

 振り返らないまま、宵は言った。

「久世晴臣に会いたくなったら言って」

 透子は目を見開く。予想もしていなかった名前だった。

「……なぜですか」
「会わせてあげる」
「旦那様が、ですか?」
「うん」

 宵は相変わらずこちらを振り返らない。廊下の暗がりへ半分身を置いたまま、何でもないことのように続ける。

「君がまだあの男を好きなら、その方がいいでしょ」

 透子は唇を引き結んだ。
 どうしてそんなことを言うのだろう。どうして顔も見せずに言えてしまうのだろう。

「……旦那様は」
「何?」
「私に、晴臣様のところへ戻ってほしいのですか」

 それを口にした瞬間、部屋から音が消えたような気がした。
 沈黙そのものは決して長くなかった。けれど、その時間は妙に重く、夜の静けさの中で不自然なほど引き延ばされて感じられる。

 宵は小さく笑った。初めて会った時のように、ふわりと軽く。何も気にしていないように。

「まさか」

 その言葉に、透子は知らず詰めていた息を吐いた。
 ほっとしたのだと気づいたのは、その直後だった。
 ――けれど。

「僕は、君がどこへ行こうと困らないよ」

 続けて放たれた言葉は、まるで静かな刃のようで。
 宵はそれ以上何も言わず、今度こそ部屋を後にする。

 足音が遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなったあとも、透子はしばらくその場から動けなかった。

 ――困らない。
 たったそれだけの言葉なのに、思った以上に胸の奥へ沈んでいく。

 おかしいと思う。宵に必要とされたい理由など、本当はどこにもないはずだった。

 この結婚は政略だ。宵は最初から透子を愛するつもりはないと言ったし、好きになったら離婚だとまで告げている。

 それなのに、残された言葉だけが、冷たい余韻となって胸の内へ留まり続けていた。

 透子は手の中の手巾へ視線を落とす。
 黒く染まった布には、まだ微かに宵の熱が残っている気がした。それが余計に苦しかった。

「……そう、ですよね」

 誰に聞かせるでもなく呟く。
 自分へ言い聞かせるための言葉だった。けれど声は思った以上に頼りなく、迷子の子どものように震えていた。

 透子は静かに目を伏せる。
 泣くほどのことではない。そんなことは分かっている。それでも胸の奥がじくじくと痛んで、どうしようもなく寂しかった。

 南雲家へ来てから初めて、透子はひとりで泣きたい気持ちになっていた。