宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 だから透子は少し考えた末、正直に答えた。

「……分かりません」

 宵は何も言わない。
 透子は再び視線を落としながら続けた。

「ただ、放っておけないのです」

 その言葉に、宵の瞳が分かりやすく揺れた。何かを言いかけるように唇を動かし、それでも結局は諦めたように目を細めた。

「それ、一番困る答えだ」
「申し訳ありません」
「だから謝らない」
「では、気をつけます」

 すっかり慣れたやり取りだったけれど、今夜はどこか違っていた。
 宵は手を引こうとせず、透子もまた手巾を離そうとしない。
 そんな静かな時間がしばらく続いたあとで、宵はふと思い出したように口を開く。

「今日、久世晴臣に会ったよ」

 透子の指先がわずかに止まった。

「……そうですか」
「うん。相変わらず爽やかだった。腹が立つくらい」

 さらりと言ったくせに、その横顔はどこか不満そうだった。

「腹が立ったのですか」
「いいや、少しも」
「先ほど、腹が立つと仰っていました」
「言葉の綾」

 宵はあっさりと言い切る。どう考えても誤魔化しているようにしか聞こえなかった。

「彼、君のことを気にしていたよ」
「何か言っていたのですか」
「透子は元気にしているかって」

 透子は静かに目を伏せた。

 久世晴臣はかつて婚約者だった人だ。けれど、その響きは不思議なほど遠かった。
 胸が痛まないわけではない。ただ、その痛みはもう昔の傷に触れた時のようなもので、今ここにあるものではなかった。

「そうですか」

 透子がそう答えたのが意外だったのか、宵は片眉を上げる。

「それだけ?」
「はい」
「もっと動揺するかと思った」
「私も、そう思っていました」

 透子は宵の手元へ視線を落としたまま続けた。

「でも、不思議ですね。どうも思わないのです」

 晴臣を嫌いになったわけではない。
 ただ、もう遠くなってしまった。手を伸ばしても届かない場所へ置いてきた思い出のように。

 宵はしばらく何も言わず透子を見つめていたが、小さく笑った。

「花嫁さん」
「はい」
「君、自分で思ってるより薄情かもしれないね」
「そうでしょうか」
「うん」

 眠たげな目を細めながら、宵はどこか満足そうに続ける。

「僕はそういうところ、嫌いじゃない」

 透子が顔を上げると、宵はいつものように意地の悪い笑みを浮かべていた。その奥には安堵が滲んでいるようにも見えた。