「随分と地味な子が来たね」
透子は一瞬、聞き間違いかと己の耳を疑った。
「……はい?」
「いや、悪い意味じゃないよ。たぶん」
絶対に悪い意味だ。そう思ったが、口には出さなかった。
宵は畳の上を音もなく歩き、透子の向かいに腰を下ろした。所作は驚くほど綺麗だった。だから余計に、言葉の悪さが際立つのだろう。
「まあ、安心して。僕は君に期待していない」
「……ご期待に添えず、申し訳ありません」
「うん。素直で結構」
宵は楽しそうに目を細めた。
腹が立つ。透子は久しぶりに、はっきりとそう感じた。
けれど同時に、不思議でもあった。この人の周りだけ、孤独の色が濃すぎるのだ。
薄墨どころではない。夜の底に落ちたような、深い、深い黒。何重にも巻かれた布の下から、微かに血が滲んでいるような痛みが見える。
そんなものを、透子は今まで見たことがなかった。
「何?」
宵が首を傾げる。
「僕の顔、そんなに変?」
「……いえ」
「なら見惚れてた?」
「違います」
思わず即答すると、宵は目を丸くさせた。それから、可笑しそうに笑う。
「へえ」
その笑みは、先ほど見せたものとは少し違っていた。
「君、言い返すんだ。なんだか意外だな」
「失礼いたしました」
「いいよ。黙って泣かれるより面白いから」
宵は片肘をつき、唇の端を上げながら透子を見つめる。
「じゃあ、花嫁さん」
名前ではなくそう呼ばれたことに、透子はほんの一瞬だけ瞳を揺らす。
透子の名前はここでも呼ばれないのだ。
「……はい」
「ひとつだけ、注告がある」
「注告ですか」
宵は優雅に微笑んだ。ずっと見ていたくなるくらい美しいけれど、精巧な細工品のような微笑みだ。
「僕のこと、好きになったら離婚だよ」
しんと部屋の中が静まり返る。その時初めて、透子の世界から音が消えた。
透子は薄らと唇を開いたまま、瞬きも忘れて宵を見ていた。
「あれ、聞こえなかった?」
「……いえ、聞こえましたが」
「ならよかった」
宵は何でもないことのように笑う。
「僕は人に好かれるのが嫌いなんだ。面倒だし、重いし、たいていろくなことにならない。だから君も、僕のことは好きにならないように」
「…………」
「その代わり、衣食住は保証するよ。南雲家の花嫁として不自由はさせない。君の実家にも、まあ、適当に恩は売っておく」
これが、結婚相手とする初めての会話なのだろうか。
透子はきゅっと唇を引き結ぶ。
宵に関する噂は色々と耳に入ってきてはいたが、実物はそれらを遥かに上回った。なんて失礼な人だとひたすらに思うが、透子の胸を占めているのは怒りではなかった。
(――ならどうして、花嫁を求めたの?)
宵は透子という花嫁を迎えておきながら、それ以上は近づくなと言わんばかりにはっきりと線を引き、拒んでいる。だというのに、彼の声は面白がるように軽やかなのだ。
透子はゆっくりと息を吸った。
「分かりました」
宵の眉がぴくりと動く。
「ずいぶん素直だね」
「好きにならなければいいんですよね」
「そうだね」
「では、努力いたします」
宵は一拍置いて、それから声を立てて笑った。
「努力するんだ。君、変な子だね」
「貴方様ほどではありません」
言ってから、しまったと思った。
老女中が息を呑む気配がして、透子もごくりと喉を鳴らす。しかし宵は怒らなかった。むしろ、楽しそうに笑った。
「いいね」
宵は透子を見た。先ほどまでの退屈そうな目ではなく、興味の色を宿している。
「花嫁さん、君は思ったより退屈しなさそうだ」
透子はそっと息を吐いた。
——それが、透子の夫になる人との最悪な出逢いだった。
透子は一瞬、聞き間違いかと己の耳を疑った。
「……はい?」
「いや、悪い意味じゃないよ。たぶん」
絶対に悪い意味だ。そう思ったが、口には出さなかった。
宵は畳の上を音もなく歩き、透子の向かいに腰を下ろした。所作は驚くほど綺麗だった。だから余計に、言葉の悪さが際立つのだろう。
「まあ、安心して。僕は君に期待していない」
「……ご期待に添えず、申し訳ありません」
「うん。素直で結構」
宵は楽しそうに目を細めた。
腹が立つ。透子は久しぶりに、はっきりとそう感じた。
けれど同時に、不思議でもあった。この人の周りだけ、孤独の色が濃すぎるのだ。
薄墨どころではない。夜の底に落ちたような、深い、深い黒。何重にも巻かれた布の下から、微かに血が滲んでいるような痛みが見える。
そんなものを、透子は今まで見たことがなかった。
「何?」
宵が首を傾げる。
「僕の顔、そんなに変?」
「……いえ」
「なら見惚れてた?」
「違います」
思わず即答すると、宵は目を丸くさせた。それから、可笑しそうに笑う。
「へえ」
その笑みは、先ほど見せたものとは少し違っていた。
「君、言い返すんだ。なんだか意外だな」
「失礼いたしました」
「いいよ。黙って泣かれるより面白いから」
宵は片肘をつき、唇の端を上げながら透子を見つめる。
「じゃあ、花嫁さん」
名前ではなくそう呼ばれたことに、透子はほんの一瞬だけ瞳を揺らす。
透子の名前はここでも呼ばれないのだ。
「……はい」
「ひとつだけ、注告がある」
「注告ですか」
宵は優雅に微笑んだ。ずっと見ていたくなるくらい美しいけれど、精巧な細工品のような微笑みだ。
「僕のこと、好きになったら離婚だよ」
しんと部屋の中が静まり返る。その時初めて、透子の世界から音が消えた。
透子は薄らと唇を開いたまま、瞬きも忘れて宵を見ていた。
「あれ、聞こえなかった?」
「……いえ、聞こえましたが」
「ならよかった」
宵は何でもないことのように笑う。
「僕は人に好かれるのが嫌いなんだ。面倒だし、重いし、たいていろくなことにならない。だから君も、僕のことは好きにならないように」
「…………」
「その代わり、衣食住は保証するよ。南雲家の花嫁として不自由はさせない。君の実家にも、まあ、適当に恩は売っておく」
これが、結婚相手とする初めての会話なのだろうか。
透子はきゅっと唇を引き結ぶ。
宵に関する噂は色々と耳に入ってきてはいたが、実物はそれらを遥かに上回った。なんて失礼な人だとひたすらに思うが、透子の胸を占めているのは怒りではなかった。
(――ならどうして、花嫁を求めたの?)
宵は透子という花嫁を迎えておきながら、それ以上は近づくなと言わんばかりにはっきりと線を引き、拒んでいる。だというのに、彼の声は面白がるように軽やかなのだ。
透子はゆっくりと息を吸った。
「分かりました」
宵の眉がぴくりと動く。
「ずいぶん素直だね」
「好きにならなければいいんですよね」
「そうだね」
「では、努力いたします」
宵は一拍置いて、それから声を立てて笑った。
「努力するんだ。君、変な子だね」
「貴方様ほどではありません」
言ってから、しまったと思った。
老女中が息を呑む気配がして、透子もごくりと喉を鳴らす。しかし宵は怒らなかった。むしろ、楽しそうに笑った。
「いいね」
宵は透子を見た。先ほどまでの退屈そうな目ではなく、興味の色を宿している。
「花嫁さん、君は思ったより退屈しなさそうだ」
透子はそっと息を吐いた。
——それが、透子の夫になる人との最悪な出逢いだった。

