宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

「無駄だって言ったのに」
「無駄でも、心配することはあります」

 透子がそう返すと、宵は困ったように目を伏せる。

「花嫁さんは頑固だね」
「旦那様ほどではありません」

 その返事に、宵は一瞬だけ息を呑んだように見えた。
 泣きそうな顔だった――と、透子は思う。けれど、それはほんの瞬きほどの時間でしかなく、次の瞬間にはいつもの皮肉げな微笑が戻っていた。

「じゃあ見せてあげる」

 宵はそう言うと、左手の手袋をゆっくり外した。
 本来なら白いはずの手は、手首から指先にかけて墨を流し込んだような黒に染まり、その色は皮膚の奥まで深く沈み込んでいるように見えた。まるで生き物のように蠢く気配さえあって、見ているだけで胸が苦しくなる。

「ひどい……」

 思わず零れた言葉に、宵は肩を竦めた。

「そう? いつもよりましだよ」
「これで、ですか」
「うん」

 あまりにもあっさりと言うものだから、透子は返す言葉を失う。
 気づけば立ち上がり、宵の傍らへ膝をついていた。
 宵はそっと身を引いていたものの、それ以上は何も言わなかった。

「花嫁さん」
「見せてください」
「見えてるでしょ」
「もっと近くで」
「嫌だと言ったら?」
「それでも見ます」

 宵はしばらく透子を見つめていたが、困ったように目を細める。
 
「君、本当に変わってる」
「知っています」
「否定しないんだ」
「旦那様に何度も言われましたから」

 透子はそう答えながら、そっと手を伸ばした。
 触れていいのかは分からない。けれど、宵は拒まなかった。

 指先が黒く染まった手の近くで止まる。まだ触れてもいないはずなのに、そこから滲む熱と痛みが伝わってくるようだった。

 絡みついているのは穢れだけではない。恐怖や怒り、行き場を失った恨み、そして誰にも触れさせず抱え込んできた孤独が幾重にも重なり合い、黒い色となって宵の手へ沈んでいる。
 透子はその手を見つめながら、小さく息を吐いた。

「……このお怪我は、花嫁が消えたという事件と関係があるのですか」

 その瞬間、宵の目が鋭く細められる。

「誰から聞いた?」
「女中たちが話しているのを」
「八重さんは止めなかったの?」
「止めました」
「じゃあ聞かなかったことにして」

 宵は軽く言ったが、透子は首を横に振った。