──── *
宵が戻ったのは、夜が更けてからだった。
夕餉の刻を過ぎても姿を見せず、透子は八重に勧められるまま一人で食事を済ませたものの、何を口にしたのかもよく覚えていない。
久世晴臣が軍府へ来ること。花嫁が消えたという噂。そして、朝から戻らない宵のこと。気にするなと言われたところで、気にならなくなるわけではなかった。
自室で本を開いていても文字はなかなか頭へ入らず、同じ頁ばかりを何度も眺めていた時、不意に廊下の向こうから足音が聞こえてきた。
それは決して特徴のある足音ではなかったはずなのに、透子にはなぜか分かった。
ああ、宵だ――と。
やがて襖が控えめに叩かれる。
「起きてる?」
昨日までは勝手に入ってきたくせに、今日は律儀に声を掛けるらしい。そんなことを思いながら返事をすると、襖の向こうで小さく笑う気配がした。
「入っていい?」
「どうぞ」
ほどなくして襖が開き、宵が部屋へ姿を現す。
軍服は朝のまま、肩へ掛けた外套には夜気が残っていた。黒髪も幾分乱れているが、本人はまるで気にした様子もなく、いつものように微笑んでいる。
「ただいま、花嫁さん」
「おかえりなさいませ」
「夫婦っぽいね」
「一応、夫婦ですから」
透子がそう返すと、宵は少しだけ目を細めた。
「言うようになった」
どこか愉快そうに笑いながら椅子へ腰を下ろす姿は、普段と変わらない。けれど、その顔を見た瞬間、透子の胸には小さな痛みが走った。
宵の周囲に滲む孤独の色が、今夜はいつもより濃い。墨を溶かしたような黒の奥で、赤黒い痛みが静かに揺れている。それを見てしまった以上、何も言わずにいることはできなかった。
「旦那様」
「何?」
「お怪我をなさったのではありませんか」
宵は一瞬だけ目を瞬かせ、それから何でもないことのように肩を竦める。
「してないよ」
「嘘です」
宵は怪訝そうに目を細めた。
「断言するね」
「顔色が悪いです」
「元からこういう顔だよ」
「お手元も」
透子の視線を追った宵が、ふっと口元を緩める。
「花嫁さん、僕の手が好きなの?」
その軽口に、透子はぐっと眉を寄せた。
「茶化さないでください」
自分でも驚くほど強い声だった。宵も驚いたのか、目を丸くさせている。
部屋を満たした静けさの中で、宵は諦めたように小さく笑った。
「もしかしなくても怒ってる?」
「怒っています」
「どうして?」
問い返されて、透子はほんの一瞬だけ迷う。けれど、誤魔化すことはできなかった。
「心配しているからです」
その言葉が零れた途端、空気が静かに変わった気がした。
宵の笑みが、ほんの少しだけ薄れる。
「心配、ね」
呟くような声だった。
宵が戻ったのは、夜が更けてからだった。
夕餉の刻を過ぎても姿を見せず、透子は八重に勧められるまま一人で食事を済ませたものの、何を口にしたのかもよく覚えていない。
久世晴臣が軍府へ来ること。花嫁が消えたという噂。そして、朝から戻らない宵のこと。気にするなと言われたところで、気にならなくなるわけではなかった。
自室で本を開いていても文字はなかなか頭へ入らず、同じ頁ばかりを何度も眺めていた時、不意に廊下の向こうから足音が聞こえてきた。
それは決して特徴のある足音ではなかったはずなのに、透子にはなぜか分かった。
ああ、宵だ――と。
やがて襖が控えめに叩かれる。
「起きてる?」
昨日までは勝手に入ってきたくせに、今日は律儀に声を掛けるらしい。そんなことを思いながら返事をすると、襖の向こうで小さく笑う気配がした。
「入っていい?」
「どうぞ」
ほどなくして襖が開き、宵が部屋へ姿を現す。
軍服は朝のまま、肩へ掛けた外套には夜気が残っていた。黒髪も幾分乱れているが、本人はまるで気にした様子もなく、いつものように微笑んでいる。
「ただいま、花嫁さん」
「おかえりなさいませ」
「夫婦っぽいね」
「一応、夫婦ですから」
透子がそう返すと、宵は少しだけ目を細めた。
「言うようになった」
どこか愉快そうに笑いながら椅子へ腰を下ろす姿は、普段と変わらない。けれど、その顔を見た瞬間、透子の胸には小さな痛みが走った。
宵の周囲に滲む孤独の色が、今夜はいつもより濃い。墨を溶かしたような黒の奥で、赤黒い痛みが静かに揺れている。それを見てしまった以上、何も言わずにいることはできなかった。
「旦那様」
「何?」
「お怪我をなさったのではありませんか」
宵は一瞬だけ目を瞬かせ、それから何でもないことのように肩を竦める。
「してないよ」
「嘘です」
宵は怪訝そうに目を細めた。
「断言するね」
「顔色が悪いです」
「元からこういう顔だよ」
「お手元も」
透子の視線を追った宵が、ふっと口元を緩める。
「花嫁さん、僕の手が好きなの?」
その軽口に、透子はぐっと眉を寄せた。
「茶化さないでください」
自分でも驚くほど強い声だった。宵も驚いたのか、目を丸くさせている。
部屋を満たした静けさの中で、宵は諦めたように小さく笑った。
「もしかしなくても怒ってる?」
「怒っています」
「どうして?」
問い返されて、透子はほんの一瞬だけ迷う。けれど、誤魔化すことはできなかった。
「心配しているからです」
その言葉が零れた途端、空気が静かに変わった気がした。
宵の笑みが、ほんの少しだけ薄れる。
「心配、ね」
呟くような声だった。


