宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

「困るな」
「困るのですか」
「うん。君みたいな子は、本当に困る」

 その言葉には呆れとも諦めともつかない響きが滲んでいて、透子には意味が分からなかった。

 何がそんなに困るのだろうと思いながら口を開きかけた、その時だった。
 襖の向こうから八重の声が響き、朝の静けさをそっと破る。

「旦那様。軍府よりお迎えが」

 宵は一瞬でいつもの表情へ戻ると、「分かった」と答えて立ち上がった。

 軍服の上着を羽織る姿は、すでに支度が整っているはずなのにどこか乱れた美しさがあり、透子は思わずその左手へ視線を落とす。

 白い手袋に覆われた指先を、昨夜から何度見てしまっただろう。そんな視線に気づいたらしい宵は、扉へ向かいながら振り返った。

「見送りはいらないよ、花嫁さん。寂しくなるから」
「寂しくなるのですか」
「君がね」
「私が?」
「僕がいないと退屈でしょ」
「いえ、特には」

 間を置かず返すと、宵は肩を揺らして笑った。

「そうやって即答するところ、嫌いじゃないよ」

 そう言いながら部屋を出かけたものの、何かを思い出したように足を止める。

「そうだ。今日、久世晴臣が軍府に来るらしいよ」

 その名前を聞いた瞬間、透子の心臓が小さく跳ねた。

「晴臣様が」
「うん。今は君のお姉さんの婚約者だったかな」

 声は軽かったが、その目だけは透子から逸れない。

「会いたい?」
「……いいえ」
「本当に?」
「はい」

 宵はしばらく透子を見つめていたが、やがて小さく笑った。

「嘘ではなさそうだ」
「疑っていたのですか」
「少し」
「どうしてですか」
「君は、自分が傷ついていることに気づくのが下手だから」

 透子は返す言葉を見つけられなかった。
 宵はその沈黙を見届けるようにひらりと手を振る。

「じゃあ、いい子で待ってて。花嫁さん」
「私は子どもではありません」
「知ってるよ」
「本当に知っていますか」
「たぶん」

 宵は楽しそうに笑いながら去っていった。

 足音が遠ざかったあとも、透子はしばらくその場を動けなかった。

 久世晴臣。その名前を聞いても、思っていたほど胸は痛まない。けれど何も感じないわけではなく、心の奥には小さな棘のようなものが今も残っている。

 晴臣は悪い人ではなかった。だからこそ、その傷には行き場がなかったのだ。

 透子は静かに息を吐き、空になった宵の席へ視線を向ける。
 そこにはもう誰もいない。それなのに、つい先ほどまで彼が座っていた場所だけが、なぜか少し温かく感じられた。