宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 南雲家に嫁いで七日が経っても、透子はまだこの屋敷の広さに慣れないでいた。

 朝、目を覚ますたびに、障子の向こうの庭を見て一瞬だけ戸惑う。実家の庭ではない。彩子が好んで座っていた縁側も、母が季節の花を活けていた廊下も、父がいつも書類を広げていた文机もない。

 あるのは、静かな白砂の庭と、黒い松と、遠くで聞こえる軍靴の音。そして、屋敷の奥に沈む深い孤独の気配だった。

 不思議なことに、それは日に日に輪郭を持ち始めている。
 最初は屋敷全体に染みついた薄墨のようなものに思えた。けれど暮らしてみると、その中心がどこにあるのか、透子にも分かってきた。

 それは北棟――宵の仕事場だ。入ってはいけないと言われている場所から、夜が訪れるたびに冷たい気配が滲み出している。

 そこから滲む色は、濡れた黒のように重く、乾かない傷をそのまま押し込めたような痛みを含んでいた。そして、それに寄り添うように、宵が纏うものの気配があるのだ。

 南雲宵は、ほとんど眠らない人だった。少なくとも、透子にはそう見えていた。
 
 夜になると、彼は任務のために出掛けていき、透子が目を覚ます頃に帰ってくる。朝餉の席に現れる宵はいつも通り意地悪な顔で笑っているのに、その目の下には薄い影が差していた。
 けれど、透子が何かを言おうとすると、彼は決まって先に封じてしまうのだ。

「ねえ、花嫁さん」

 今日も宵は湯呑みを片手に、向かいに座る透子を眺めていた。

「その顔、よくないね」

 湯呑みを傾けながら、宵は透子を見た。その目元には気怠げな笑みが浮かんでいる。

「どんな顔でしょうか。この顔は生まれつきなのですが」
「僕を心配しています、って顔だよ」

 透子は思わず口を閉じた。
 図星だ。目の下に薄く落ちる影も、手袋の下へ隠された傷も、本当はずっと気になっている。

「……してはいけませんか」
「いけないね」

 あっさりと言い切られ、透子は箸を持つ手を止めた。
 
「どうしてですか」
「君が僕を心配したところで、僕の仕事は減らないし、穢れも消えないし、睡眠時間も増えない」
「それはそうかもしれませんが」
「つまり無駄」

 けれど透子は引かなかった。

「無駄でも、心配することはあります」

 その瞬間、宵が微かに目を見開く。すぐに笑っていたものの、それは人を煙に巻く時の笑みとは少し違っていた。

 透子はこの数日のあいだに、ほんの少しだけ宵の表情の違いが分かるようになっていた。