「僕が君を選んだのは、君をあの家から連れ出してシアワセにしてあげたいからとかいう素敵な理由じゃないよ」
「では、どうして」
透子が問い返すと、宵はしばらく答えなかった。
窓の外では風が吹き、庭木の枝が揺れている。その静かな時間が流れたあとで、ようやく宵は口を開いた。
「君のお父上に腹が立っただけ」
透子は目を瞬いた。
「父が何かしたのですか」
「何も」
「え……?」
「何もしなかった」
透子は返事ができなかった。
宵の声には怒りも嘲りもない。ただ、変えようのない事実を口にしているだけのように聞こえる。
「婚約者を姉に取られても、君がひとりでいても、誰も気にしてなかった」
透子は思わず視線を落とした。
否定できない。父も母も、彩子も、晴臣も。誰も悪人ではなかった。けれど、誰も透子を見てはいなかった。
「僕、見て見ぬふりって嫌いなんだよね」
宵はそこでようやく振り返る。
その目は笑っていなかった。けれど次の瞬間には、ふんわりと口元を緩めていた。
「……まあ、細かいことは忘れちゃったけど」
嘘だ、と透子は思った。
この人はきっと忘れないだろう。傷ついたことも、失ったものも、言われた言葉も。誰より執念深く抱え込んでいる人に見えた。
けれど、その考えを口にすることはしなかった。
「じゃあ僕は戻るよ。仕事が僕を待っている。残念ながら」
「お疲れのようですから、少しお休みになっては」
その言葉に、宵は足を止めた。
「花嫁さん」
振り返った顔には、柔らかな笑みが浮かんでいる。
「優しくしないでって言ったよね」
「……はい」
「いい子だね」
「子ども扱いしないでください」
「じゃあ何扱いがいい?」
「普通に、人として」
宵は一瞬だけ黙り込み、それから目を細める。
「君、本当に変な人だね」
「褒めていませんよね」
「褒めてるよ。僕にしては」
透子が何か言い返そうとした時、宵の表情がふいに真面目なものへ変わる。
「花嫁さん」
「はい」
「今日みたいに、危ないものに手を出すのはやめて。僕は君を守るために結婚したわけじゃない」
それはきっと本心なのだろう。
それでも透子には、彼が本当に言いたいことは別にあるような気がした。
「分かっています」
「でも、南雲家に来た以上、君が壊れると困る」
「困る、のですか」
宵は少しだけ考えるように間を置いた。
「後味が悪いからね」
透子は思わず瞬きをする。
言い方はひどいが、それが彼なりの精一杯なのだと不思議なくらい自然に理解できた。
宵は廊下へ出る。そして最後に、いつもの意地悪な笑みを浮かべた。
「それじゃあね、花嫁さん。今宵、僕の夢を見ませんように」
「見ません」
「即答だね。傷つくなあ」
「傷つくのですか?」
「いいや、少しも」
宵は満足そうに笑って去っていった。
足音が遠ざかり、部屋には再び静けさだけが残る。
透子は冷めかけた茶へ視線を落とし、小さく息を吐いた。
南雲宵という人は、本当に分からない。近づくなと言いながら、危険な場所へ踏み込めば怒る。優しくするなと言いながら、自分は誰より無理をしている。好きになったら離婚だと告げたくせに、自分のことより透子の方を気にしているように見える。
庭はゆっくりと夜へ沈み始めていた。
宵という名前の通り、彼は昼でも夜でもない時間のようだと思う。
明るくはない。けれど、完全な闇でもない。
寂しくて、危うくて、どうしても目を逸らせない。
好きになってはいけない。そう分かっているはずなのに。
透子の脳裏には、夕暮れの光の中で見た宵の横顔が、いつまでも残り続けていた。
誰にも見つけてもらえなかった自分を、あの人だけは見ていたのだと知ってしまったから。
「では、どうして」
透子が問い返すと、宵はしばらく答えなかった。
窓の外では風が吹き、庭木の枝が揺れている。その静かな時間が流れたあとで、ようやく宵は口を開いた。
「君のお父上に腹が立っただけ」
透子は目を瞬いた。
「父が何かしたのですか」
「何も」
「え……?」
「何もしなかった」
透子は返事ができなかった。
宵の声には怒りも嘲りもない。ただ、変えようのない事実を口にしているだけのように聞こえる。
「婚約者を姉に取られても、君がひとりでいても、誰も気にしてなかった」
透子は思わず視線を落とした。
否定できない。父も母も、彩子も、晴臣も。誰も悪人ではなかった。けれど、誰も透子を見てはいなかった。
「僕、見て見ぬふりって嫌いなんだよね」
宵はそこでようやく振り返る。
その目は笑っていなかった。けれど次の瞬間には、ふんわりと口元を緩めていた。
「……まあ、細かいことは忘れちゃったけど」
嘘だ、と透子は思った。
この人はきっと忘れないだろう。傷ついたことも、失ったものも、言われた言葉も。誰より執念深く抱え込んでいる人に見えた。
けれど、その考えを口にすることはしなかった。
「じゃあ僕は戻るよ。仕事が僕を待っている。残念ながら」
「お疲れのようですから、少しお休みになっては」
その言葉に、宵は足を止めた。
「花嫁さん」
振り返った顔には、柔らかな笑みが浮かんでいる。
「優しくしないでって言ったよね」
「……はい」
「いい子だね」
「子ども扱いしないでください」
「じゃあ何扱いがいい?」
「普通に、人として」
宵は一瞬だけ黙り込み、それから目を細める。
「君、本当に変な人だね」
「褒めていませんよね」
「褒めてるよ。僕にしては」
透子が何か言い返そうとした時、宵の表情がふいに真面目なものへ変わる。
「花嫁さん」
「はい」
「今日みたいに、危ないものに手を出すのはやめて。僕は君を守るために結婚したわけじゃない」
それはきっと本心なのだろう。
それでも透子には、彼が本当に言いたいことは別にあるような気がした。
「分かっています」
「でも、南雲家に来た以上、君が壊れると困る」
「困る、のですか」
宵は少しだけ考えるように間を置いた。
「後味が悪いからね」
透子は思わず瞬きをする。
言い方はひどいが、それが彼なりの精一杯なのだと不思議なくらい自然に理解できた。
宵は廊下へ出る。そして最後に、いつもの意地悪な笑みを浮かべた。
「それじゃあね、花嫁さん。今宵、僕の夢を見ませんように」
「見ません」
「即答だね。傷つくなあ」
「傷つくのですか?」
「いいや、少しも」
宵は満足そうに笑って去っていった。
足音が遠ざかり、部屋には再び静けさだけが残る。
透子は冷めかけた茶へ視線を落とし、小さく息を吐いた。
南雲宵という人は、本当に分からない。近づくなと言いながら、危険な場所へ踏み込めば怒る。優しくするなと言いながら、自分は誰より無理をしている。好きになったら離婚だと告げたくせに、自分のことより透子の方を気にしているように見える。
庭はゆっくりと夜へ沈み始めていた。
宵という名前の通り、彼は昼でも夜でもない時間のようだと思う。
明るくはない。けれど、完全な闇でもない。
寂しくて、危うくて、どうしても目を逸らせない。
好きになってはいけない。そう分かっているはずなのに。
透子の脳裏には、夕暮れの光の中で見た宵の横顔が、いつまでも残り続けていた。
誰にも見つけてもらえなかった自分を、あの人だけは見ていたのだと知ってしまったから。


