宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 透子は茶器へ手を伸ばしながら、静かに口を開く。

「私は人を簡単に嫌いになれるほど、器用ではありません」

 その言葉に、宵の表情がほんのわずかに止まる。けれど次の瞬間には何事もなかったように視線を逸らし、小さく笑った。

「それは不便だね。僕みたいなのが相手だと、特に」
「そうかもしれません」

 透子は茶を淹れ、その前へ静かに差し出した。
 宵はしばらく茶碗を見つめていたが、やがて包帯を巻いた手ではなく反対の手で持ち上げる。

「ありがとう、花嫁さん」

 やはり名前は呼ばれない。それなのに、その声音は昼間よりも幾分か柔らかく聞こえた。
 穏やかな水面へ雫が落ちるように、その響きが胸の奥へ静かに沈んでいく。

「どういたしまして」

 宵は茶をひと口飲み、それから窓の外へ目を向けた。
 夕暮れが庭を薄紫に染めている。その横顔は相変わらず綺麗だ。手を伸ばせば触れられる距離にいるというのに、どうしてかとても遠く感じる。

「……あの、旦那様」
「何?」
「どうして、私を選んだのですか」

 問いを口にしてから、透子は小さく息を呑んだ。
 宵の手が、茶碗を持ち上げかけたところで止まる。

「選んだって、何が?」
「南雲家から縁談が来たと聞きました。父は、宵様がお望みだと」
「君のお父上は余計なことを言う人なんだね」
「本当なのですか?」

 宵は茶碗を置いて黙り込んだ。その沈黙のあいだにも、窓の外では夕暮れがゆっくりと庭を薄紫に染めていく。

「さあ。どうしてだと思う?」
「私の質問に答えてください」

 宵はほんの一瞬だけ目を丸くさせた。

「どこかで聞いた台詞だなあ」
「旦那様から学びました」
「悪い子だね」

 くすりと笑ったあと、宵は肩を竦める。

「でも面白かったから許してあげる」

 そう言って立ち上がると、窓辺へ歩いていった。
 夕暮れの光が障子越しに差し込み、彼の端正な横顔を淡く照らしている。