宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 透子が振り向くと、そこには宵が立っていた。軍服の上着を肩へ引っ掛け、黒髪は少しだけ乱れている。眠たげな目元はいつもと変わらないはずなのに、その場の空気だけがひやりと冷えて感じられた。
 宵はゆっくりと歩み寄り、透子と軍人の間へ立つ。

「僕、北棟には近づくなって言ったよね」
「近づいたわけでは」
「じゃあ、これは何?」

 若い軍人が慌てて頭を下げた。

「申し訳ありません、南雲少将。奥方様は私を」
「君には聞いてない」

 静かな声だった。けれど、その一言だけで廊下の空気が張り詰める。
 言葉を失った軍人を見て、宵は薄らと微笑む。

「報告もまともにできないのに、会話には参加する気なんだ。器用だね」

 男の顔から血の気が引いていく。
 透子は思わず宵を見上げた。

 怒っている。それは分かる。けれど、その怒りは目の前の軍人だけへ向けられているようには見えなかった。胸の奥で燻り続ける何かを押し込めるように、宵の周囲には濃い孤独が揺れている。

「花嫁さん」
「はい」
「君、危機感がないって言われない?」
「……あまり」
「だろうね。言われる前に周りが諦めてそう」
「失礼です」
「事実だよ」

 その声音には一切の柔らかさがなかった。

「その程度の呪いで済んだからいい。でも、もし君に移っていたらどうするつもりだったの」

 透子は答えに詰まる。昨夜も、今朝も、何度も線を引かれていた。それなのに自分は、また踏み込んでしまったのだ。

「……申し訳ありません」
「謝罪はいらない」

 宵は短くそう言うと、軍人の腕へ手を伸ばした。
 白い手袋に覆われた指先が黒い靄へ触れる。
 次の瞬間、それは音もなく宵の手へ吸い込まれていった。
 軍人の肩から力が抜ける。青ざめていた顔色にも、わずかに血の気が戻っていた。

 その代わりに、宵の指先がじわりと黒く染まっていく。
 透子は息を呑んだ。彼は今、他人の痛みを自分に移したのだ。
 宵は何事もなかったように手を下ろす。

「処理室へ戻って。封印札は三重に。責任者には後で僕が直接話す」
「はっ」
「ああ、安心して」

 宵はにこりと笑った。その笑顔は綺麗で、とても冷たい。

「泣くくらいで済めば軽症だから」

 軍人たちは顔を引きつらせたまま頭を下げ、逃げるように去っていった。
 静けさが戻ると、宵は透子へ視線を向けた。

「部屋に戻って」
「旦那様、手が」
「戻って」

 拒絶だった。
 透子は言葉を失う。
 踏み込んではいけない。そう告げられていることくらい分かっていた。それでも、指先へ広がる黒を見ていると胸の奥が小さく痛んだ。

「……八重さん、花嫁さんを部屋へ」
「かしこまりました」

 透子は八重に促されるまま歩き出した。
 振り返りたいと思った。けれど振り返れば、きっと宵は嫌な顔をする。
 だから今は、前を向いたままでいなければ。

「花嫁さん」

 呼び止められ、透子は足を止めた。

「君は、人の痛みに触るのが上手いね」

 一瞬、褒められたのかと思った。
 けれど違う。その声はどこまでも静かで、どこまでも冷たい。

「だから気をつけた方がいい」
「……どういう意味でしょうか」
「痛みに触る人間は、いつかその痛みに引きずり込まれる」

 透子が振り向くと、宵は微笑んでいた。
 美しい笑みだった。けれどその奥には、誰も近づけない夜がある。

「君まで壊れたら、面倒だからね」

 そう言って宵はひらりと手を振る。
 黒く染まり始めた指先だけを残して、その背中は薄暗い廊下の奥へ溶けるように遠ざかっていった。