宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 八重の表情が変わる。

「奥方様、こちらへ」

 その声が終わるより早く、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。

 現れたのは軍服姿の若い男たちだった。
 一人は腕を押さえている。袖口には墨を零したような黒い染みが広がり、その周囲を薄い靄のようなものが揺らめいていた。

「八重殿、南雲少将は」
「旦那様なら執務室に」
「処理中の呪物が暴れました。隔離はしましたが、少将の指示を」

 透子は思わず息を呑んだ。
 黒い靄は穢れだけではなかった。そこには恐怖が滲んでいる。声にならなかった悲鳴や、押し殺された弱音が絡まり合い、行き場を失ったまま腕へまとわりついていた。

 男は脂汗を浮かべていた。けれど、その顔に浮かぶ苦痛よりも、透子には別のものが見えてしまう。

 怖いのだ。助けを求めたいほどに。それなのに軍人である以上、弱さを見せることは許されないと、自らを縛り続けている。その痛々しさが胸に刺さった。
 気づけば透子は一歩前へ出ていた。

「その腕に、触れてもよろしいですか」

 八重が驚いたように振り返る。軍人もまた戸惑った顔をした。

「奥方様、これは」
「すぐにどうこうできるわけではありません。ただ、少しだけなら」

 透子はそっと手を伸ばした。
 自分には穢れを祓う力などない。人を救う特別な術も持っていない。けれど、その人がどこで痛み、どこで立ち尽くしているのかだけは分かる。
 だから黒い靄の奥へ向かって、静かに声を落とした。

「怖かったのですね」

 男の肩が大きく震える。

「……何を」
「怖くて当然です」

 透子は穏やかに続けた。

「無理に我慢なさらなくても、大丈夫です」

 その瞬間、黒い靄がわずかに揺らいだ。
 消えたわけではない。けれど強張っていた呼吸が、ほんの少しだけ緩んでいく。男自身も気づいていないほどの変化だった。それでも透子には分かった。

 八重が小さく息を呑む。
 透子がようやく肩の力を抜いた、その時だった。

「花嫁さん」

 甘く柔らかな声が、廊下の奥から静かに響いた。