宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 朝餉の後、透子は八重に屋敷の中を案内された。

 南雲家は、外から見るよりもずっと複雑だった。表向きの座敷、来客用の洋間、使用人たちの控え、奥向きの居室、庭を挟んだ書庫。そして、北棟へ続く長い廊下。
 その先だけ、空気が違う。冷気が滲み出しているようで、透子は思わず足を止めた。

「奥方様。北棟へは、旦那様のお許しなくお入りになりませんよう」
「はい。旦那様からも聞いております」
「陰陽寮の品や記録が多くございます。中には、人の目に触れてはならぬものも」

 八重の声は穏やかだったが、そこに含まれる緊張は本物だった。

「近づきません」

 そう答えながら、透子は北棟の方を見た。
 孤独の色が濃い。屋敷全体に染みたものの中心が、あちらにある。おそらく宵の仕事場もその近くにあるのだろう。

「旦那様は、いつもあちらでお仕事を?」
「基本的には。お呼び出しがあった時は、外に出られて朝まで帰られないことが殆どです」

 八重は困ったように眉を下げる。その横顔は使用人というよりも、孫の身体を心配する祖母のような温かさがあった。

「ご多忙なのですね」
「そうですね。そのうえ、ご自身を大切になさいません」

 その声には、長く仕えてきた人の諦めと、隠しきれない心配が滲んでいた。

 透子は昨夜の宵の手を思い出した。
 黒く滲んだ穢れ。震える指先。痛いはずなのに、痛くないと言った声。

「お食事も、睡眠も、必要最低限で済ませようとなさいます。夜通しで帝都を駆け回られる日も少なくありませんでした。私共がお止めしても、一切聞き入れてくださらないのです」
「……そうなのですか」
「ですが今朝は、奥方様とご一緒に朝餉を召し上がりました」

 八重はそこで、ほんの少しだけ笑った。

「珍しいことです」

 透子は返事に困った。
 嬉しい、と言っていいのだろうか。
 宵はただ、花嫁として迎えた透子に最低限の礼を尽くしただけなのかもしれない。けれど八重がそれを珍しいと言うのなら、あの人にとっては、少しだけ特別なことだったのだろうか。

 そう考えた途端、胸の奥で小さな波紋が広がる。その理由を、透子はまだ知らなかった。

 いけない。そんな思いが胸をよぎる。好きになったら離婚だと、昨夜あれほど念を押されたばかりなのだ。

 近づくな。優しくするな。宵は何度もそう言っていた。だから透子も、そのつもりでいたのである。

 余計なことはしない。踏み込みすぎない。花嫁として与えられた場所で静かに暮らしていればいい。

 そう考えていた矢先、北棟の奥から何かが砕けるような音が響いた。