南雲家で迎えた最初の朝、透子は夜が明けきらないうちに目を覚ました。
見慣れない天井が視界に映る。淡く青みがかった障子の向こうでは、まだ朝靄が庭を包み込んでおり、遠くからは軍人たちの足音が規則正しく響いていた。
目を開けた瞬間は、自分がどこにいるのか分からなかった。
けれど、ほんの数秒もすれば思い出す。
ここは南雲家で、透子は昨日、この家の当主である南雲宵の花嫁になったのだ。
――花嫁さん。
昨夜、宵は何度もそう呼んだ。透子ではなく、花嫁さん、と。
名前を呼ばれないことには慣れていたはずだった。
だから今さら傷つく理由などない。それなのに、その呼び方だけは不思議と胸の奥に残っている。
まるで指先で触れられそうな距離にいながら、決して越えることのできない境界を示されているようで、思い出すたびに胸の内へ小さな寂しさが落ちていった。
南雲宵という人は、おそらくそうやって生きてきたのだろう。人を遠ざけながら、自分もまた近づかせないように。
透子は静かに寝台を下り、窓辺へ歩み寄った。
障子を少しだけ開くと、朝の冷たい空気が頬を撫でる。
庭はまだ薄い靄の中に沈んでいた。濡れた石畳の上に白く霞が流れ、松の枝先には夜露が残っている。その向こうには洋館造りの離れが見え、さらに遠くには軍府の建物らしき灰色の影がぼんやりと浮かんでいた。
息を呑むほど美しい景色だった。けれど、その美しさの奥には、どこか冷えた静けさがある。
この家には、長い年月をかけて積み重なった孤独が染みついていた。
人の胸の奥に沈む痛みや寂しさが色のように見える透子には、それがよく分かる。
誰にも気づかれずに零れ落ちた悲しみが、まるで屋敷そのものに染み込んでしまったかのようだった。
透子はそっと自分の手を見下ろした。
白い指先は朝の光を受けて淡く透けて見える。これまで何かを掴もうとして、そのまま指の隙間から零れていったものがどれだけあっただろう。
名前を呼ばれることも。誰かに必要とされることも。当たり前のように手の中へあると思っていた未来さえも。
(わたしは――)
その時、不意に襖の向こうから控えめな声が聞こえた。
「奥方様。お目覚めでいらっしゃいますか」
奥方様。それが自分のことだと気づくまで、少し時間がかかった。
「はい」
透子が返事をすると、襖が開き、昨夜の老女中が深く頭を下げた。
「おはようございます。わたくし、南雲家の内向きを預かっております、八重と申します」
「おはようございます。透子です」
名乗ったあとで、少しだけ恥ずかしくなった。
昨日から、何度も名乗っている。けれど誰にも、その名を呼ばれていない気がした。
八重は穏やかに微笑んだ。
「透子様。朝餉のご用意が整っております」
その呼びかけに、透子は思わず顔を上げた。名前を呼ばれただけのことなのに、不思議と胸の奥へ小さな灯がともるような気がして、透子はそっと指先を握りしめる。
「……ありがとうございます」
「旦那様も間もなくいらっしゃいます」
「旦那様も?」
「はい。昨夜は遅くまでお仕事をされていましたので、普段は朝餉を召し上がらないことも多いのですが」
八重は穏やかに微笑みながら続けた。
「今朝は、奥方様とご一緒に、と仰っておりました」
透子はわずかに目を見開いた。
昨夜、自分に向かって好きになったら離婚だと告げた人が、今朝は当然のように同じ食卓へ着こうとしている。
近づくなと言われたわけではない。けれど優しくするなとは言われたし、これ以上踏み込むなと暗に拒まれた気もしていた。その一方で、透子のための部屋を整え、食事の席を用意し、夫としての体裁を欠かそうともしない。
まるでこちらへ近づこうとしては思い出したように距離を取り、拒んだかと思えば何事もなかったように手を差し伸べてくる。
南雲宵という人は、つくづく不思議な人だ。人を遠ざけることには慣れているように見えるのに、その背中には時折、誰かが追いかけてくることを待っているような寂しさが滲んでいる。
だからこそ透子は、あの人が本当は何を望んでいるのか、少しだけ知りたいと思ってしまうのだった。
見慣れない天井が視界に映る。淡く青みがかった障子の向こうでは、まだ朝靄が庭を包み込んでおり、遠くからは軍人たちの足音が規則正しく響いていた。
目を開けた瞬間は、自分がどこにいるのか分からなかった。
けれど、ほんの数秒もすれば思い出す。
ここは南雲家で、透子は昨日、この家の当主である南雲宵の花嫁になったのだ。
――花嫁さん。
昨夜、宵は何度もそう呼んだ。透子ではなく、花嫁さん、と。
名前を呼ばれないことには慣れていたはずだった。
だから今さら傷つく理由などない。それなのに、その呼び方だけは不思議と胸の奥に残っている。
まるで指先で触れられそうな距離にいながら、決して越えることのできない境界を示されているようで、思い出すたびに胸の内へ小さな寂しさが落ちていった。
南雲宵という人は、おそらくそうやって生きてきたのだろう。人を遠ざけながら、自分もまた近づかせないように。
透子は静かに寝台を下り、窓辺へ歩み寄った。
障子を少しだけ開くと、朝の冷たい空気が頬を撫でる。
庭はまだ薄い靄の中に沈んでいた。濡れた石畳の上に白く霞が流れ、松の枝先には夜露が残っている。その向こうには洋館造りの離れが見え、さらに遠くには軍府の建物らしき灰色の影がぼんやりと浮かんでいた。
息を呑むほど美しい景色だった。けれど、その美しさの奥には、どこか冷えた静けさがある。
この家には、長い年月をかけて積み重なった孤独が染みついていた。
人の胸の奥に沈む痛みや寂しさが色のように見える透子には、それがよく分かる。
誰にも気づかれずに零れ落ちた悲しみが、まるで屋敷そのものに染み込んでしまったかのようだった。
透子はそっと自分の手を見下ろした。
白い指先は朝の光を受けて淡く透けて見える。これまで何かを掴もうとして、そのまま指の隙間から零れていったものがどれだけあっただろう。
名前を呼ばれることも。誰かに必要とされることも。当たり前のように手の中へあると思っていた未来さえも。
(わたしは――)
その時、不意に襖の向こうから控えめな声が聞こえた。
「奥方様。お目覚めでいらっしゃいますか」
奥方様。それが自分のことだと気づくまで、少し時間がかかった。
「はい」
透子が返事をすると、襖が開き、昨夜の老女中が深く頭を下げた。
「おはようございます。わたくし、南雲家の内向きを預かっております、八重と申します」
「おはようございます。透子です」
名乗ったあとで、少しだけ恥ずかしくなった。
昨日から、何度も名乗っている。けれど誰にも、その名を呼ばれていない気がした。
八重は穏やかに微笑んだ。
「透子様。朝餉のご用意が整っております」
その呼びかけに、透子は思わず顔を上げた。名前を呼ばれただけのことなのに、不思議と胸の奥へ小さな灯がともるような気がして、透子はそっと指先を握りしめる。
「……ありがとうございます」
「旦那様も間もなくいらっしゃいます」
「旦那様も?」
「はい。昨夜は遅くまでお仕事をされていましたので、普段は朝餉を召し上がらないことも多いのですが」
八重は穏やかに微笑みながら続けた。
「今朝は、奥方様とご一緒に、と仰っておりました」
透子はわずかに目を見開いた。
昨夜、自分に向かって好きになったら離婚だと告げた人が、今朝は当然のように同じ食卓へ着こうとしている。
近づくなと言われたわけではない。けれど優しくするなとは言われたし、これ以上踏み込むなと暗に拒まれた気もしていた。その一方で、透子のための部屋を整え、食事の席を用意し、夫としての体裁を欠かそうともしない。
まるでこちらへ近づこうとしては思い出したように距離を取り、拒んだかと思えば何事もなかったように手を差し伸べてくる。
南雲宵という人は、つくづく不思議な人だ。人を遠ざけることには慣れているように見えるのに、その背中には時折、誰かが追いかけてくることを待っているような寂しさが滲んでいる。
だからこそ透子は、あの人が本当は何を望んでいるのか、少しだけ知りたいと思ってしまうのだった。


