宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 視線が再び庭へ向く。花の向こうを見つめる横顔は穏やかだったのに、どこか遠くを見ているようにも見えた。

「僕はたぶん、そこまで生きられないんだよね」

 透子の胸が静かに痛む。
 悲観しているわけではない。諦めているわけでもない。ただ昔から知っている事実を口にしただけのような声音だった。

「もしかしたら、自分の子どもも抱けないかもしれないし、君を置いていくかもしれない」

 春風が吹き抜け、ひとひらの花びらが宵の肩へ落ちた。
 けれど本人は気づいていない。
 透子は何も言わず、その肩の花びらをそっと摘み取った。そうして、繋いだ手へ力を込める。
 すると宵も、その温度を確かめるように指を重ねた。

「それでも、僕を選んでくれる?」

 その問いは、どこか昔の宵によく似ていた。
 誰より愛されたかったくせに、愛されることを怖がっていた頃の宵に。
 透子はふっと笑う。

「そのようなことを仰るなんて、宵様らしくありません」
「いや、僕は昔からこういうことばかり考えてる男だよ」
「そうでしたっけ」

 透子はしばらく考えるふりをしてから、小さく頷いた。

「でしたら安心してください」
「何が?」
「私、宵様によく似た御子をたくさん産みますから」

 ぴたりと、宵の表情が止まった。

「……うん?」
「ですから、もし宵様が先にいなくなってしまったとしても、寂しがっている暇はないのです。子育てで忙しくしている予定ですので」
「ちょっと待って」
「それに宵様に似た子ばかりでしたら、きっと大変です」
「それは本当にそうだけど」

 透子は思わず笑ってしまう。
 そして改めて隣の人を見つめた。

「ですから私は、その子たちを立派に育てます」

 夕暮れの光が庭へ降りる。
 花びらが風に乗って舞う。その景色の中で透子は静かに微笑んだ。

「宵様の分まで長生きします」

 その言葉に、宵は何も言わなかった。
 ただ透子を見つめている。まるで思いもよらない答えを聞かされた人のように。

「だから」

 透子は少しだけ照れながら、それでも逃げずに言葉を続けた。

「いつか私を置いていくその日まで、私を愛してくださいませんか」

 春の風が吹く。
 長い沈黙が落ちる。
 けれどその沈黙は苦しいものではなかった。

「──ふふっ、あははっ」

 宵は息を吐くように笑った。

 その笑顔は透子の知らないものだった。

 いつものように余裕を纏っているわけでも、困らせるために口元を歪めているわけでもない。

 ただ可笑しくて、ただ嬉しくて、思わず零れてしまったような笑みだった。

 長いあいだ胸の奥へ抱え込んでいたものがほどけた人は、こんな顔で笑うのかもしれない。

「透子ってば。そこは普通、宵様と一緒に死にますって泣くところじゃないの?」
「絶対に嫌です」

 透子がきっぱり言い切ると、宵はまた笑った。

「ひどいなあ」
「ひどくありません」
「君は僕と一緒に死んでくれないんだ」
「当たり前です」

 胸を張った透子を見て、宵はふっと笑みをやわらげた。
 そうして、繋いだ手を握り直す。
 失いたくないものへ触れるように。大切なものを確かめるように。
 そして、愛おしむように。

「……うん」

 小さく頷く。その声音は、どこまでも穏やかだった。

「じゃあ、よろしく」

 透子は微笑みながら、その手を握り返した。

 春の風が庭を渡る。枝先に残る花が揺れ、薄紅の花びらが空へほどけるように舞い上がる。

 どちらともなく微笑み合う。

 春の光はやわらかく庭を照らし、風は花の香りを運んでくる。

 失われたものが消えることはない。抱えた傷も、きっとなくならない。

 それでも人は歩いていけるのだと、透子は知った。

 誰にも必要とされなかった少女と、愛することも愛されることも恐れていた青年。

 そんな二人の物語は、ここからようやく始まるのかもしれなかった。