宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

「花嫁さん」

 宵は微笑んだ。昼間と同じ、綺麗な笑顔だった。けれど、その目は少しも笑っていない。

「僕の言うこと、聞いてた? 部屋に戻れって言ったんだけど」

 宵は透子の逃げ道を塞ぐように壁へ手をつき、ゆるく首を傾げた。

「もしかして、僕の寝込みを襲うつもりだった?」

 吐息が触れそうな距離で囁かれ、透子は今度こそ言葉を失った。

 近い。とにかく近い。
 宵はそんな透子の動揺など少しも気づいていないらしい。面白そうに目を細めている。

「残念だけど、僕は仕事の特性上夜に家を空けることが多いから、初夜はお預けになるよ」
「わたしはそんなつもりでは──」
「真っ赤な顔で抗議されても、説得力はないからね」
「誰のせいだと思っているのですか」
「僕のせいか」

 宵はくっくと喉の奥で笑いながら、ようやく透子から距離を取った。

 それで終わりだと思った。けれど、彼は数歩先で足を止める。

 夜の廊下には灯りが少ない。振り返った宵の横顔は薄闇に溶けかけていて、どんな表情をしているのかまでは見えなかった。

「ねえ」

 ふいに呼ばれ、透子は顔を上げる。そこに先ほどまでの軽薄な調子はない。

 静かな声だった。けれど、それは怒っているわけではなさそうだ。どこか遠くを見ているような、不思議な響きだった。

「僕に優しくしないで」

 透子は意味が分からず、瞬きも忘れて宵を凝視する。

「君が思っているより、ろくなことにならないから」

 その言葉だけを残して、宵は小さく笑う。
 今度の笑みは、昼間のものによく似ていた。だからこそ、先ほど聞いた声だけが胸にこびり付いたように残る。

「それじゃあおやすみ、花嫁さん。僕の夢を見ないといいね」

 宵は軽く手を振り、廊下の奥へ消えていった。

 残された透子は、その場から動けなかった。

 怖い人だと思う。嫌な人だとも思う。綺麗で、意地悪で、何を考えているのか少しも分からないけれど──。

 ――僕に優しくしないで。

 そう言った時の宵の声だけは、なぜだか忘れられそうになかった。