宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 南雲家の庭にも、ようやく春が訪れていた。
 白砂の上へ降り注ぐ陽射しは冬の日よりもずっとやわらかく、池のほとりでは薄紅の花が静かに咲いている。風が枝先を揺らすたび、花びらは空へほどけるように舞い上がり、水面へ落ちては淡い波紋を広げていた。

 透子は縁側に腰を下ろし、その景色を眺めていた。
 初めてこの屋敷へ足を踏み入れた日のことを、ふと思い出す。

 あの頃の南雲家は静かだった。
 けれどそれは穏やかな静けさではなく、長い年月をかけて積み重なった孤独や痛みが、家そのものへ染み込んでいるような静けさだった。

 その印象が消えたわけではない。人の傷はそんな簡単に癒えるものではないし、失われた時間が戻ることもない。それでも今の南雲家には、以前にはなかった温度がある。

 朝になれば八重が襖の向こうから透子の名を呼び、使用人たちは忙しく立ち働きながらも穏やかな笑顔を見せるようになった。

 離れで暮らす篠乃も、ときおり庭へ出るようになっている。まだ遠い場所を見つめる時間は長いけれど、その横顔には確かに人のぬくもりが戻りつつあった。

 そして何より――。

「透子」

 名前を呼ぶ声がある。その当たり前が、透子には今でも嬉しかった。

 振り返ると、縁側の向こうに宵が立っていた。
 黒い着流しに羽織を重ねた姿は、軍服をまとっていた頃よりも肩の力が抜けて見える。療養は終わったはずなのに顔色だけは相変わらず良いとは言えなかったが、それでも以前ほど無理を重ねることはなくなった。
 もっとも、それは透子が半ば強引に休ませているからかもしれない。

「そんなところで何をしているの」

 春の日差しに目を細めながら尋ねられ、透子は庭へ視線を戻した。

「お花を見ていました」
「花嫁さんが花見?」

 どこか愉快そうな声音だった。
 透子は彼を見上げる。

「最近はちゃんと名前で呼んでくださっていたのに」
「たまにはいいでしょ。初心を忘れないために」
「初心ですか」

 宵は何でもないことのように頷いた。

「君を好きにならない予定だった頃の初心」

 透子は思わず瞬きをした。意味を理解した途端、頬へ熱が集まってくる。

「……宵様」
「なに」
「そういうことを急に仰らないでください」
「照れてる?」
「照れていません」
「嘘が下手だね」

 宵は楽しそうに笑いながら透子の隣へ腰を下ろした。
 肩が触れそうな距離に人がいることが、今ではすっかり当たり前になっている。
 それなのに、ときどきこうして不意打ちのような言葉を向けられると、今でも心臓は落ち着きを失ってしまう。

 事件が終わってから、宵は少し変わった。
 毒舌なところも、皮肉屋なところも、仕事を抱え込みすぎるところも、面倒が口癖なところも、根本的には何ひとつ変わっていない。

 けれど以前なら隠していた痛みを、痛いと言うようになった。眠れない夜には透子の部屋の前まで来て、「入っていい?」と尋ねるようになった。

 そして何より、迷うことなく透子の名前を呼ぶようになった。
 その変化だけで十分だった。
 名前を呼ばれるたび、自分はここにいていいのだと思えるから。

「宵様」
「なに」
「お薬は飲みましたか」

 途端に宵の視線が逸れた。

「……あれはまずいから嫌い」
「飲んでいませんね」
「透子は最近、本当に厳しい」

 心底不満そうな声だった。

「そのうち軍医より怖くなりそうだし。なんか口もどんどん悪くなってる気がする」
「宵様のせいです」
「また僕のせい?」
「はい」
「責任重大だな」

 呆れたように笑う声が心地よい。
 こんな他愛のない会話が好きだった。
 笑って、言い返して、同じ時間を過ごす。それだけのことが、昔の透子には遠いものだったからだ。
 必要とされること。見てもらうこと。名前を呼ばれること。
 ずっと欲しかったものが、今は手の届く場所にある。