宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 花嫁たちは救出された。
 旧儀礼殿に囚われていた娘たちは、衰弱していたものの、全員命に別状はなかった。髪や袖には黒い糸の痕が残っていたが、名を返されたことで術式は解けていた。

 婚姻縛りを復活させようとしていた朝廷の一派も、軍府によって拘束された。彼らは古い儀礼の記録を盗み、過去の花嫁たちの怨念を利用しようとしていたという。だが怨念は制御できず、呪いは暴走した。

 その中心にあったのが、篠乃の簪だった。
 愛されたかった女の痛み。名を奪われた花嫁たちの悲しみ。家のために縛られてきた多くの声。それらがひとつに絡まり、帝都の花嫁たちを連れ去っていた。

 事件は終わった。
 けれど、終わったからといって、すべての傷が消えるわけではない。

 如月家の父は、十年前の隠蔽を認めた。官職は解かれ、朝廷で裁きを受けることになるという。

 透子はその知らせを、南雲家の座敷で聞いた。
 悲しいのか、ほっとしたのか、自分でも分からなかった。ただ、何も感じないわけではない。傷ついていたし、怒りもあった。それをようやく、自分で認められた。


 数日後、透子は宵とともに離れを訪れた。
 庭には雨上がりの匂いが残っている。竹林の葉から水滴が落ち、静かな音を立てていた。

 篠乃は縁側に座っていた。その姿は以前よりも穏やかに見えた。長く絡みついていたものが、簪とともにほどけたのかもしれない。
 彼女は宵を見ると、静かに微笑んだ。

「宵」
「母上」

 宵の声には、まだ硬さがある。けれど、以前ほど冷たくはなかった。

「透子さん」

 優しく呼ばれた名前に、透子は姿勢を正した。

「はい」

 篠乃は透子を見つめる。その眼差しには、感謝も、後悔も、言葉にできなかった長い歳月も静かに滲んでいた。

「宵を、見つけてくれてありがとう」

 その瞬間、隣で宵が息を呑む気配がした。
 篠乃はゆっくりと息子へ視線を向ける。長いあいだ届かなかった眼差しが、ようやく真っ直ぐに宵へ注がれていた。

「あなたが苦しかったことを、私はずっと知らなかった」

 宵は何も答えない。けれど、その沈黙から目を逸らすこともなかった。

「母上」

 呼びかける声は驚くほど穏やかだった。責める響きも、恨む響きも、そこにはない。
 篠乃は小さく微笑む。それは透子が初めて見る、どこか肩の力の抜けた微笑みだった。

「ごめんなさい」

 静かな声だった。けれど、その一言には長い年月が込められていた。
 伝えられなかった想いも。気づけなかった後悔も。愛していたのに届かなかった時間も。すべてを抱えたまま落とされた謝罪だった。

 誰も急かさない。誰も何も言わない。ただ、その言葉が宵へ届くのを待つように、静かな時間だけが流れていた。

 宵は目を伏せる。
 何かを飲み込むように。あるいは胸の奥に残っていた痛みへそっと触れるように。

 透子は隣でそっと手を伸ばした。
 触れた指先は冷たい。けれど振り払われることはなかった。むしろ宵の指がゆっくりと重なり、その温もりを確かめるように握り返してくる。

 篠乃はその様子を見つめていた。そして安堵したように目を細める。泣きそうにも見えたし、笑っているようにも見えた。

「よかった」

 その言葉は不思議なくらい静かだった。それなのに、透子の胸へ深く染み込んでいく。

 きっと宵にも届いている。
 失われた時間が消えるわけではない。残された傷がなくなるわけでもない。それでも今、この場所で交わされた言葉は確かに本物だった。

 篠乃の微笑みはどこまでも穏やかで、光の中でゆっくりとほどけていった。