宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

「怖かったんだよ。君がいなくなった時、ああ、もう駄目だと思った」

 その声音に飾り気はなかった。誰かを説得しようとしているわけでもない。許してほしいと願っているわけでもない。事実を語るように落とされた言葉だからこそ、透子の胸へ深く沈んでいく。

 宵はずっと恐れていたのだ。
 誰かを愛してしまうことを。誰かに愛されることを。その先で失うことを。

 幼い頃から見続けてきた悲劇が、今もなお彼の中で終わっていないことを透子は知っている。

 愛は人を壊す。愛は人を狂わせる。そう信じることでしか自分を守れなかった人なのだ。

 だから何度も遠ざけられたのだ。
 それでも――透子は知っている。そのすべてが拒絶ではなく、失うことへの恐怖から生まれたものだったことを。

「僕はまだ怖い」

 宵は自嘲するように笑う。その笑みはひどく儚くて、透子の胸を締めつけた。

「愛されることも、君を好きになることも、君を手放せなくなることも、たぶん全部まだ怖い」

 そこで言葉が途切れ、雨音だけが静かに降り続く。
 透子は何も言わなかった。
 急かしたくなかった。
 今この人は、自分自身の恐怖と向き合っている。
 逃げたい気持ちも、閉ざしてしまいたい気持ちも、それでも手を伸ばしたいという願いも、そのすべてを抱えたまま立っている。

 だから透子は待った。宵が自分の言葉を見つけるのを。

 宵はゆっくりと顔を上げる。その眼差しは真っ直ぐ透子へ向けられていた。
 迷いが消えたわけではない。恐怖がなくなったわけでもない。それでも、もう目を逸らさないと決めた人の眼差しだった。

「……でも」

 掠れるような吐息とともに零れたその一言が、透子の胸を震わせる。

 宵は困ったように眉を寄せた。まるで自分でも呆れているみたいに。こんなことを言う日が来るなんて思わなかったとでもいうように。

「そばにいてほしい」

 透子は息を呑む。それは愛しているという言葉ではなかった。
 けれど、透子には分かった。
 この人にとって、その願いがどれほど重いものなのか。
 誰にも頼らず生きてきた人が、誰かを必要としないことで傷つくことから逃れてきた人が、初めて差し出した願いだった。

「ごめん、勝手だよね」

 苦笑する宵の声には、もう皮肉も諦めもなかった。
 ただ少しだけ照れたような響きが混じっている。

「それでも、いてほしい」

 透子の視界が滲んだ。
 好きだと言われたわけではない。愛していると言われたわけでもない。それなのに、どうしてこんなにも胸がいっぱいになるのだろう。

 必要としてほしかった。
 この人の隣にいてもいいのだと教えてほしかった。
 ずっと、そう願っていたのだ。

「痛い時も、怖い時も」

 宵は一度言葉を切る。そして少しだけ視線を伏せたあと、どこか照れたように続けた。

「できれば、名前を呼んで」

 透子は涙を拭うことも忘れて頷いた。
 頷くたびに涙が零れる。それでも笑みだけは消えなかった。

「はい」

 声は震えていた。けれど、その震えごと届けたかった。

「何度でも呼びます」

 嬉しい時も、苦しい時も、泣きたい時も。
 どんな時だって、あなたが望むなら何度でも。

 宵の指が透子の手を包み込む。その力は思ったより強く、透子は思わず目を瞬いた。
 離したくないのだと語るように。
 ようやく辿り着いた温もりを確かめるように。

「君は本当に聞き分けが悪いからね」
「宵様のせいです」
「また僕のせい?」

 透子が迷いなく頷くと、宵は堪えきれなくなったように笑った。その笑顔は透子が知るどの表情より穏やかで、どこまでも優しかった。

「困ったなあ」

 それはいつもと変わらない言葉だった。
 けれど今はもう違う。
 距離を取るための冗談ではなく、逃げるための皮肉でもなく、ようやく手に入れたものを失いたくないと願う人の、静かな降参だった。