光が満ちたあと、儀礼殿には深い静けさが残った。
雨の音だけが、遠くから聞こえている。
透子はしばらく、自分が立っているのか、宵に支えられているのか分からなかった。身体が震えている。喉が痛い。腕にも足にも、黒い糸の痕が残っている。
けれど、名前は奪われていない。
自分は、透子だ。そう思った瞬間、膝から力が抜けた。
「透子」
宵が抱きとめる。その声は、もう迷わず透子を呼んでいた。
「大丈夫?」
「……大丈夫ではありません」
「正直でよろしい」
いつもの言葉なのに、宵の声は震えていた。
透子は顔を上げる。
宵の左腕は、肩口を越えて胸元まで黒く染まっていた。顔色は紙のように白く、額には汗が浮かんでいる。
「宵様こそ」
「僕は大丈夫」
「嘘です」
「じゃあ、少し大丈夫じゃない」
「かなりです」
「厳しい」
宵は笑おうとした。けれど、その笑みはうまく形にならなかった。
次の瞬間、彼の身体が傾く。
「宵様!」
透子は必死に支えた。
宵は片膝をつきながら、それでも透子の手を離さなかった。
「離して、いいのですよ」
「嫌だ」
宵は苦しげに息をしながら、透子の手を握っている。
「さっき、離した。もう嫌だ。君がいなくなる方が怖い」
宵は目を伏せた。
「愛されるのも、好きになるのも、君を手放せなくなるのも、まだ怖い。君を壊すかもしれないって、今でも思ってる」
「はい」
「でも、君がいなくなる方が、もっと怖い」
透子の涙が落ちた。
宵はそれを見て、困ったように眉を寄せる。
「……どうして泣くの」
「嬉しいからです」
「君、嬉しいとすぐ泣くね」
「宵様のせいです」
「責任重大だなあ」
宵は、ほんの少しだけ笑った。その笑みは弱くて、痛々しくて、それでも今まで見たどの笑みよりもやわらかかった。
儀礼殿の奥で、眠らされていた花嫁たちが目を覚まし始める。榊の声が遠くから響き、軍府の兵たちが駆け込んでくる。
その慌ただしい気配の中で、宵は透子だけを見ていた。
「透子」
「はい」
「離婚の話、撤回したい」
透子は目を見開いた。
「……よろしいのですか」
「よくないよ。君を遠ざけた方が安全なのかもしれない。今でも、正しいのはそっちだと思ってる。……でも」
宵の指が、透子の手を探るように触れる。
「透子がいなくなるの、嫌だった」
透子は返す言葉を失った。
砕けた簪から溢れる光が雨に滲み、儀礼殿の中を淡く照らしている。その光の中に立つ宵は、静かな顔をしていた。
強がっているわけではない。平気なふりをしているわけでもない。ただ長いあいだ胸の奥へ押し込めてきたものを、ようやく言葉にしようとしている。
雨の音だけが、遠くから聞こえている。
透子はしばらく、自分が立っているのか、宵に支えられているのか分からなかった。身体が震えている。喉が痛い。腕にも足にも、黒い糸の痕が残っている。
けれど、名前は奪われていない。
自分は、透子だ。そう思った瞬間、膝から力が抜けた。
「透子」
宵が抱きとめる。その声は、もう迷わず透子を呼んでいた。
「大丈夫?」
「……大丈夫ではありません」
「正直でよろしい」
いつもの言葉なのに、宵の声は震えていた。
透子は顔を上げる。
宵の左腕は、肩口を越えて胸元まで黒く染まっていた。顔色は紙のように白く、額には汗が浮かんでいる。
「宵様こそ」
「僕は大丈夫」
「嘘です」
「じゃあ、少し大丈夫じゃない」
「かなりです」
「厳しい」
宵は笑おうとした。けれど、その笑みはうまく形にならなかった。
次の瞬間、彼の身体が傾く。
「宵様!」
透子は必死に支えた。
宵は片膝をつきながら、それでも透子の手を離さなかった。
「離して、いいのですよ」
「嫌だ」
宵は苦しげに息をしながら、透子の手を握っている。
「さっき、離した。もう嫌だ。君がいなくなる方が怖い」
宵は目を伏せた。
「愛されるのも、好きになるのも、君を手放せなくなるのも、まだ怖い。君を壊すかもしれないって、今でも思ってる」
「はい」
「でも、君がいなくなる方が、もっと怖い」
透子の涙が落ちた。
宵はそれを見て、困ったように眉を寄せる。
「……どうして泣くの」
「嬉しいからです」
「君、嬉しいとすぐ泣くね」
「宵様のせいです」
「責任重大だなあ」
宵は、ほんの少しだけ笑った。その笑みは弱くて、痛々しくて、それでも今まで見たどの笑みよりもやわらかかった。
儀礼殿の奥で、眠らされていた花嫁たちが目を覚まし始める。榊の声が遠くから響き、軍府の兵たちが駆け込んでくる。
その慌ただしい気配の中で、宵は透子だけを見ていた。
「透子」
「はい」
「離婚の話、撤回したい」
透子は目を見開いた。
「……よろしいのですか」
「よくないよ。君を遠ざけた方が安全なのかもしれない。今でも、正しいのはそっちだと思ってる。……でも」
宵の指が、透子の手を探るように触れる。
「透子がいなくなるの、嫌だった」
透子は返す言葉を失った。
砕けた簪から溢れる光が雨に滲み、儀礼殿の中を淡く照らしている。その光の中に立つ宵は、静かな顔をしていた。
強がっているわけではない。平気なふりをしているわけでもない。ただ長いあいだ胸の奥へ押し込めてきたものを、ようやく言葉にしようとしている。


